チャンネル桜の討論番組
「シン・ゴジラから見えてくる日本の現在」
いかがでしたか。
ちなみに番組では話題の流れもあって
批判的な見解がメインとなりましたが、
私はあの映画に評価すべき点がないと思っているわけではありません。
たとえばゴジラが放射能火炎
(もはや火炎という域を超えていましたが)を吐きまくる映像の華麗さは
ハリウッド版を含めて歴代最高でした。
あるいはヤシオリ作戦の一端を担った
在来線爆弾のアイディアも秀逸。
藤井聡さんならずとも感心するところですね、あれは。
サル丸さんのコメントにあったように
(9月29日付記事「シン・ゴジラのショック・ドクトリン」参照)
出番の少ないキャラに注目するという視点も
当然、ありだと思います。
し・か・し。
「シン・ゴジラ」は
映像の組み合わせで作品の世界をつくりあげ、そこに観客を引き込む
という映画の本道を行かずに
過剰なテロップで映像を覆い隠し、作品の世界から観客を締め出す
傾向が強すぎたと思うのです。
物語を「描く」のではなく「説明する」ことに終始した作品
あるいは
観る側が内容にたいして独自に反応する余裕を与えず、
ひたすら情報量で勝負したがる作品
という形容もできるでしょう。
けれどもそれは、観客とのコミュニケーションを拒否するにひとしいことだと思えてなりません。
そこが引っかかるのですよ。
それはともかく。
この作品については、
政治的シミュレーションとして評価する意見が見られます。
だとしても「シン・ゴジラのショック・ドクトリン」でも述べたように
映画のラストは決して肯定的なものとは言いがたい。
実際、あのあと東京復興がどうなるかを考えると
こんな感じになるのではないでしょうか。
1)政府が「復興構想会議」を設置し、有識者とされる人々を集める。
ただし会議では非現実的な観念論が続出、まるで話がまとまらない。
結局、事務スタッフの官僚が、会議の内容とはロクに関係のない提言を勝手にまとめる。
2)復興財源を確保するため、消費税を15%にするという方針が打ち出される。
これにたいしては、日本経済をさらに冷え込ませるだけだという批判が続出、
支持率が急低下した内閣は一気にリーダーシップを失い、復興構想会議はこの時点で有名無実化する。
3)復興需要にたいして、土木・建築系の供給能力が追いつかず、なかなか再建が進まない。
4)「政府の財政状況が厳しいのに、復興予算を出しすぎだ」という見解が、いつの間にか世論の主流となる。
5)「どうせ東京は大規模な人口流出(※)が起きたのだから、ただ復興しても仕方がない」などと大真面目に論じる学者が現れる。
当の学者は「首都の創造的復興」なるものを提唱するが、その内実は何だかサッパリ分からない。
(※)たしか300万人以上が地方に避難したことになっていたはずです。
6)そうこうしているうちに、ゴジラ被災地の大半がアメリカ系の多国籍企業か、あるいは中国系の資本によって買収される。
7)以上すべてが、「グローバル化」の名のもとに正当化される。
この展開を何と呼ぶか、ご存じですか?
そうです。
スクラップ・アンド・スクラップと言うのです!!
ではでは♬(^_^)♬
(↑)「震災ゴジラ!」についていた特典ブックプレートです。
14 comments
Guy Fawkes says:
10月 2, 2016
一昨月前の表現者シンポジウムで浜崎洋介さんが仰られた「言っていることとやっていることのズレ」
佐藤先生は「優れた芝居の人物はそれ(言行不一致)に対して自覚的である」と指摘されました。
そして、当該討論の最初で「ゴジラをアメリカに差し出すということが始まった作品」
「『自閉』という枠の中に入った自立」ということを佐藤先生は仰いました。
これを踏まえると、庵野監督は究極のノンポリというのは同意しますが、
やはり『シン・ゴジラ』は「言葉と現実の齟齬」について
誠実に向き合ったつもりなのかフリなのかは別に、図らずも不誠実な本質を如実に露呈したと思います。
藤井先生のお言葉を拝借すれば「改革願望」「ご破算にすれば上手くいく」という戦後のリバイバルを
主体性を等閑にした上で積極的・消極的問わず肯定することでしかない。
庵野監督関連でアニメの別作品の話で、ご存知かはわかりかねますが
カウボーイビバップというテレビアニメで監督を務めた渡辺信一郎という方が原案を監督と兼任し、
2014年夏に放映された『残響のテロル』という作品があります。作品内容を端的に申し上げると
「戦後日本を独立国とする為に極右勢力の人体実験に使われた少年達の生き残りが
六ケ所村から核兵器を盗み出し、自分達を利用した大人達に報復するために東京各地ににテロを仕掛け、
最後には首都上空で核を爆発させる」という代物です。
はっきり言って「反核・反米・反戦・反戦前」というテーマの作品で、
原案と監督を兼任した渡辺信一郎もその思想を隠していません。
しかし、これに至っても藤井先生が仰った様な「改革願望」は備わっているのです。
詳しくは長くなりすぎますのでこれ以上は書けませんが、
上述したテーマの様な如何にも左派・リベラルが標榜してきた趣旨に至っても
日本の破局願望と自閉が根強く張り巡らされていることを改めて思い知りました。
お忙しいかもしれませんがよろしければご覧になってみてください、全11話です。
余談ですが、「スクラップ・アンド・スクラップ」という言葉は10年近く前、
東京都知事選に立候補した外山恒一さんという活動家が発して
大いにネタにされた政見放送を思い出します。
ホワホ says:
10月 3, 2016
スクラップアンドビルド
これは逆に、和訳してみろよと、尋ねて見たいですね
破壊と再生じゃなくて破壊ゆえに再生になってるんじゃないかと
反孫・フォード says:
10月 4, 2016
>流れもあって批判的な見解がメインとなりましたが
普通のメディアから漏れてくる解釈だけでは詰まらなくもありあれはあれでサクラ的?でもあったのかなぁと思う昨今です。
今考えると否定版と肯定版の同時包装も面白かったかなと思いました。
やはり人数が多いとなかなか話すタイミングのない方が出るから・・・・ですね(以前から思うに、小太郎さんでしたか彼はいつも極・謙虚過ぎるし、佐藤さんも流れの中で話している気がして思いの半分も口にしていない気がします)。
貧・卑脳民大衆者ですが、藤井先生は極マクロ的な解釈?を話そうとしていたところをぶったぎっていた西村氏に対しては、話が終わってからでよかったのではと思います。
素人大衆の若造?の戯言ですがご憂慮願います。
サル丸 says:
10月 8, 2016
コメントを取り上げていただいて恐縮です。サル丸です。うれしくてまたも書き込んでおります。時間が経ってしまい、読んでいただけるかどうかわかりませんが、桜の討論を見て、想定外の衝撃を受けたことを告白します。
ざっくりとした感想は、、、佐藤さんがシャープ過ぎ、藤井さんがパワフル過ぎたため、他の討論者が圧倒されてしまい、議論が批判に終始してしまって少々残念だったという贅沢な批判をするしかないような、実にエキサイティングな3時間でした。某西村氏ではなく、それこそ加藤典洋氏だったら、ぶっちぎりの神(シン?)討論になっていたかも、などと妄想しております。『正論11月号』に水島さんがはっきり書かれていたシンゴジラ=國體説にも驚かされましたが(笑)。
佐藤さんの発言に関して、2点感想を。
まずは過剰なテロップについて。素直にショックを受けました。確かに思考停止を引き起こすための手管として機能していることは否定できない。もしも何か意味があるのだとしても、一度の観賞でわからないような表現は、やはり邪道なのかもしれません。
ただ。この過剰なテロップが、前回コメントしたような無名の人々を逆に強調しているようにも見えてしまうのですね。正史では語られることの無い、「固有名」を持たない人々を。
もしかしたらこの映画は、自閉的なプロレタリア映画なのかもしれません。でも、それは映画の中には答えがない。
悪く言えば、監督が信じてもいないテーマを多くちりばめただけの代物。というか、佐藤さんの言うように映画になる前の残骸?だから私も含めて多くの人が、この映画の中に自分を探してしまうのでしょう。
さてもう一点。ゴジラをアメリカに差しだすはじまりとか、ギャレゴジのスピンオフ云々という話については、少し手厳しい気もしました。順番が逆ではないですか?と。日本のゴジラ映画の低迷がハリウッドでのゴジラ3部作(予定)を招来したわけですから、「シン・ゴジラ」がもしゴジラを日本産の怪獣という設定に固執していたら、ここまでの興行収入は見込めなかったのではないでしょうか。
ゴジラのネーミングライツまで日本の対米属国ぶりを表現しているわけで。
とはいえ、数年後にはゴジラがハリウッドの代表的モンスターとして定着している可能性が高いですね。
何はともあれ「シン・ゴジラ」という映画は、その上映期間中に、畏れ多くも今上陛下による「日本人の象徴とは何なのか」についてのお言葉が発せられるという「事件」があったことで、より関心を集めたのだと思います。私たち日本人は変わらなければならない。だって、天皇陛下も人間なのです。たとえ、奇跡を生み出す血筋の持ち主でも、日々の行動で示さなければならない。
なのに、どうしようもなく愚民である我々は、「シン・ゴジラ」や「君の名は。」の中に答えを探そうと躍起になっている。佐藤さんや藤井さんの苛立ちの原因はその辺にあるのではないでしょうか。
答えは映画の外部にしか存在しないのだ、と。
少し単純化しすぎましたね。ただ私はそういった方々の真摯な批判に心を開きつつ、またまたサイフのチャックを開いてしまうのでした。
長文、御無礼お許しください。
SATOKENJI says:
10月 8, 2016
プロレタリア映画という発想は面白いですね。
サル丸 says:
10月 9, 2016
チャンネル桜の討論で話題に上がっていた『スーサイド・スクワッド』を見て帰宅したところです。
びっくりするほど酷い映画でした。こう書いていても血が逆流するくらい…。
『シン・ゴジラ』をけなす(?)ためにあんな映画を誉めるとは…。
実は先日『ハドソン川の奇跡』も見て来まして、「想定外」の事故を扱っている点、9.11のトラウマをからめる点など、『シン・ゴジラ』と共通していながら、実にアメリカ人らしい、「歴史」を刻んでいく人間の行動の峻厳さのようなものに心を打たれたところだったので、正直あの討論自体が色褪せて見えてしまいました。
比較するならせめてこの映画にしてほしかったです。クリント・イーストウッドさんの話題が上がっていただけに、上映時期が合わず(ですよね?)、残念です。
場違いは承知しておりますが、震えるほどの怒りが抑えられず(金と時間の損失、そして意見の異なる他人を理解しようと努力する人間が存在するということに無自覚な学者様への憤りをこめて(笑)キーボードを叩いております。佐藤さんにとってはとんだとばっちりでしょうが、御容赦ください。
SATOKENJI says:
10月 9, 2016
『スーサイド・スクワッド』は見ていませんし、討論でもその話題には加わらなかったので、直接的なコメントはできませんが・・・
『シン・ゴジラ』について論じているのですから、
ハリウッド版『ゴジラ』(1998年版と2014年版の両方)との比較が、
もっとなされても良かったとは思いますね。
玉田泰 says:
10月 10, 2016
真に遅ればせながら、6日に「シン・ゴジラ」観てきました(以前書いたコメントは、未見のまま思い浮かべただけの意見でした。申し訳ないです)そして先程「シン・ゴジラから見えてくる日本の現在」拝見しました。
僕の映画の感想は、何だかリアルを装ったパロディのようだな、でもゴジラが暴れるシーンは見応えがあるし(大半は寝ていますが、笑)クライマックスは熱くなって見入ってしまう、というものでした。
それで、番組を観て思ったのは、スクラップ&ビルドのビルドが描かれていないという意見には賛成しかねます。映画内でも色々と言い訳していましたが、無理にハッピーエンドを匂わせる必要もないのでは?
映画全体の取って付けたようなもっともらしさが、言い訳がましいラストにつながった気がします。
それから、自閉的なのは僕も感じました。後、アニメ的だとも。しかし何よりもあの番組で凄みがあったのは、先生の
「ゴジラが最後に復活していたら、映画の意味合いは違っていた」
という発言でした。
そこまで突き抜けて欲しかった!
SATOKENJI says:
10月 10, 2016
もちろん怪獣映画は、都市の破壊と怪獣の撃退、つまり徹底したスクラップで終わってよいのです。
その意味では、ビルドを描く必要はありません。
しかし「シン・ゴジラ」の問題は、
「ビルドがない」というツッコミを入れられてしまうような言い訳がましさがラストに漂っていたことでしょう。
つまりは映画自体が、怪獣映画として自信のない終わり方になっていたのです。
名士列車万歳! says:
10月 10, 2016
初の投稿がまさかこれになるとは思いませんでしたが・・・皆さんと異なる解釈を天邪鬼にも投稿致します。
>「シン・ゴジラ」は(中略)傾向が強すぎたと思うのです。
そもそも、今作において庵野秀明氏はだれを「ターゲット」としていたのでしょうか?
8月に鑑賞したのですが、「正統派映画」における「一般的観客」向けの映画とはとても思えませんでした。
寧ろ、「正統派映画」へのアンチ・テーゼにも感じられました。
主人公不在、恋愛なし、アクションなし、観客をおいていきかねないテンポ・セリフの数々・・・。
本来なら、売れる作品ではない。みなさんの言うように(正統な)映画としては失格。
しかし邦画では「君の名は。」に次ぐ売れ行き。歴代ゴジラでは6位。5位になるのも時間の問題。
この映画の評価については従来のゴジラ作品との比較のほか、この点を掘り下げていただければと思います。
>観る側が内容にたいして独自に反応する余裕を与えず、
寧ろ私は説明が曖昧にされているがゆえ観る側が好き勝手に内容を考察できる作品だと感じましたが。
佐藤先生は(米中に支配される)「スクラップ・アンド・ビルド」を想起なされたようですが、
私は米国に従属的か、身の回りにしか関心のない戦後日本人への警鐘と皮肉に感じました。
ただ、その前提として日本社会・国際情勢への基礎知識―ここの方ならば持っていて当然であるレベル―
は要求されるでしょう。
その前提が満たされていない場合、庵野監督から「観客」と看做されていない可能性があります。
この点は映画として不適切かもしれません。故に今作のヒットは歓迎しながらも意外に感じた次第です。
長文駄文失礼いたしました。
SATOKENJI says:
10月 10, 2016
独自に反応する余裕を与えないことと、
好き勝手に内容を考察できることは、この作品の場合は矛盾しません。
「シン・ゴジラ」は、
説明を曖昧なままにしておいて、情報量を過剰にする
という作りになっているからです。
過剰な情報量によって、作品世界(=本来の意味での内容)に入り込ませないようにしておくと同時に、
曖昧な説明によって、「どんな内容に解釈しても正しいんだ」という印象を与える。
だから見終わったあと、あれこれ論じたくなる人が続出しているのではないでしょうか。
ヒットの理由も、この点にあるのかも知れませんよ。
名士列車万歳! says:
10月 10, 2016
早速のコメントありがとうございました。
>作品世界(=本来の意味での内容)に入り込ませないようにしておく
内容が無い作品のために特番や討論番組を用意している(そして出演している)とすれば
我々は監督のピエロですね。みすみすその程度の作品を宣伝して回っているわけですから。
「私は好きにした。君らも好きにしろ。」
直前の作品で酷評された彼からのメッセージは案外これかもしれないと思った次第です。
よって彼の宣伝役を演じつつ、我々も好きに(シン・ゴジラを解釈)したらよいかと。
SATOKENJI says:
10月 10, 2016
いえいえ、そのような空虚さや自閉性が
今の日本を理解するうえで重要な手がかりになったりするのですよ。
「シン・ゴジラ」は優れた出来ではないにもかかわらず、
否、ある意味では映画以前の出来だからこそ
べつのレベルで有意義な作品になっていると言えるでしょう。
要はどこまで主体性を持って映画と向かい合えるかです。
サル丸 says:
10月 12, 2016
もう一度だけコメントさせていただきます。
上記の佐藤さんのコメントに、私はほぼ完全に同意します。
その上で、『シン・ゴジラ』の宣伝チラシの裏面に記載されていた言葉
「諦めず、最後までこの国を見捨てずにやろう」
が、庵野総監督の率直な思いであり、メッセージであると感じます。
(ちなみに、この背景に使用されているスチールは、おそらく米軍のゴジラに対する空爆が始まる際、渋滞にはまった車列ではないでしょうか)
それが伝わってくるからこその大ヒットであり、「社会現象」化なのだと思います。
あの3.11から5年経って、『シン・ゴジラ』と『君の名は。』(これも実際は名作でも何でもないのは明白です)の2本の映画が爆発的な観客動員数を記録したことは、私たち日本人が、今一番何を求めているかを明らかにしてしまったのだと思います。
端的にいって、それは「がんばろう日本」や「絆」のバーゲンセールと現実とのあまりの落差でしょう。
映画がそれを補完することを、私は非難すべきだとは思いません。良くも悪くも、それは自分自身と向き合うプロセスを伴うから。
佐藤さんのおっしゃる通り、「どこまで主体性を持って映画と向かい合えるか」なのだと、私も思います。
と、同時に「この国の将来」というどでかい課題に向かい合うためにも。
お忙しい中、丁寧なコメントをありがとうございました。
遅ればせながら今、『震災ゴジラ』を読んでいるところです。感想はまだ書けませんが、想像通りの鋭さに圧倒されております。
またいつの日か、機会がありましたらコメントさせていただきたいと思います。