さあ、コンサート第二部の始まりです。
スイート・ベイジルのステージに、Sayaさんとバンドが出てきました。
「どれだけ」は何曲目に歌うんだ?
一番前の席に座っていたのですが、まさか聞くこともできません。
しかしここで、Sayaさんがステージ中央にあった椅子を動かします。
椅子の背が客席を向くようにしたのです。
そして、そこに座ってみせた。
ちょっと蓮っ葉な姿勢。
お客さんの中には、びっくりした人もいました。
Sayaさんといえば、清楚なイメージがありますからね。
しかし、私はピンと来ました。
これは「どれだけ」を歌うに違いない!
一曲目に持ってきたか!
・・・歌は、ただ「唄う」だけのものではありません。
じつは「演じる」ものなのです。
戦後最大のシャンソン歌手、越路吹雪さんなど、ずばりこう言い切ったくらい。
シャンソンは、一曲一曲がドラマ。
声を出す前、椅子に座ったところから、彼女の歌は始まっていたわけです。
だから私にもピンと来た次第。
そして Sayaさん、「どれだけ」を完璧に歌いきってくれました。
どう歌ってくれたか、これは言葉では表現できません。
あの晩、スイート・ベイジルにいなかった方は、
彼女がふたたびステージでこの曲を取り上げてくれるか、
CDに収録してくれるのを待っていただくしかない。
けれども、完璧であったことは私が保証します。
なにせ自分が書いて託したはずの詞が、
まるで Sayaさんが書いたもののように思えたのですから。
いや、「Sayaさんが書いた」というのは正しくない。
ステージで椅子に座った彼女の中から、思いつくまま、言葉がひとりでに出てくる感じ。
これを「歌の世界を自分のものにする」と申します。
事前に稽古を重ねたことをやっているにもかかわらず、
実演の瞬間にすべてが初めて創造されているかのような印象を作り出すこと。
優れた表現がなされるとき、時間はある意味、消滅するのです。
そしてすべては、客席に伝わりました。
というのも。
Sayaさんが歌い終わったとき、場内は数秒間、濃密な沈黙に包まれたのです。
拍手が起きたのはそれから。
この沈黙こそ、彼女が観客を圧倒した証拠。
声を出す前、椅子に座ったときから歌が始まっていたのと同じように、
歌い終わり、声が消えたあとも、「どれだけ」の世界はお客さんの中で続いていたのです。
だから拍手が起こるのが遅れた。
聴いた人、一人ひとりの中に歌があったから。
20世紀のデンマークを代表する作家、イサク・ディーネセン(男性名ですが、これはペンネーム。じつは女性です)の言葉を、関連して紹介しましょう。
「物語の語り手が、作品の本質にたいして心から誠実であるなら、
すべてを語り終えたとき、沈黙そのものが語り始めます。
本質が損なわれてしまえば、沈黙はただの空白にすぎません。
しかし誠実に語ることができたとき、私たちは『無言の声に満ちた沈黙』に触れるのです」
やったぜ、Sayaさん!
文句なしに、第一級のパフォーマンスでした。
・・・コンサートの最後の曲、「漂泊の旅路」を歌い始める前、
彼女は私の顔を見ました。
それもまっすぐ。
目で質問しているんですね。
どうだったかって。
右手を伸ばし、親指を立ててみせました。
──完勝さ!!
Sayaさん、良かったという様子で歌に入りました。
人前で表現するのは、どんなプロでも、つねに不安なものなのです。
さて明日は、7月5日のバースデー・スペシャルライブについて書くべきところですが。
このままだと、彼女にサイトを乗っ取られそうだ(笑)!!
というわけで、別の話題をやります。
某総理の「悪魔を倒す」発言について。
エクソシストだったんだなあ、あの人。
マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」でも聴き返しておくか。
(注:映画『エクソシスト』の有名な主題曲です)
そして6月のヘルマンハープ・コンサートから、写真をもう一つ。
終演後のパーティ会場にて。
彼女も私も、じつは来賓だったのですよ。
左の女性は、日本最高、いや世界最高のヘルマンハープ奏者との呼び声も高い、梶原千沙都(かじわら・ちさと)さんです。
ではでは♬(^_^)♬