アニメ映画「この世界の片隅に」

意欲的な企画であり、

ていねいに愛情こめてつくられているものの、

観客を酔わせる前に

監督の片淵須直さんが作品世界に自己陶酔してしまった感が強く、

そのせいで平板かつ詰め込みすぎという

イマイチな仕上がりになっている。

 

昨日の記事の内容を要約すれば、こうなります。

 

で、

その自己陶酔が最も端的に出ているのが

映画のオープニングだというところで

以下次回となったわけですが。

 

オープニングについて触れる前に

別の例も挙げておきましょう。

すなわち、劇中の年号表記。

 

※※※というわけで、この先ネタバレがあります。ご注意を。※※※

 

「この世界の片隅に」の年号は

全編、和暦で統一されています。

ところが、元号が書かれていない。

 

冒頭の「8年12月」から始まって、

「19年4月」とか

「20年8月」とか

ずっと「昭和」抜きになっているのです。

 

しかるに西暦でも、

上2ケタを省略して表記することがありますので

これは不親切と言わねばなりません。

 

歴史にうとい若い観客の中には

昭和19年4月なのか

1919年4月なのか

混乱する人がいるかも知れないじゃないですか。

 

そこまで行かなくとも

なぜ元号を書かないのか?

書いたら何かまずいのか?

という点に引っかかって

映画に入り込みにくくなる客だっているかも。

 

なんで、こんな表記になっているの?

 

・・・じつはこれ、

原作の雑誌連載時期に由来するもの。

 

こうの史代さんの原作漫画は

冒頭の2つのエピソード「冬の記憶」「大潮の頃」をのぞいて

2007年〜2009年の「漫画アクション」誌に掲載されました。

 

和暦に直せば、平成19年〜21年。

他方、漫画は昭和19年〜21年にかけての出来事を描いています。

 

こうの史代さんは

過去と現在の共通性を強調するために

元号抜きの表記にしたわけです。

19年から21年まで、という点は同じですからね。

 

けれども今年は平成28年。

元号を抜きにすれば年号は同じということには

どのみちなりません。

つまり映画では、元号を表記しないことに意味がない!!

 

原作でやっているからといって

必然性のなくなった表記法を導入し、

結果的に不親切となりかねないことをしてしまう。

観客への分かりやすさを考えていない点で、

自己陶酔を感じてしまうわけです。

 

・・・さて、問題のオープニングです。

 

ここでは子供時代(8歳ぐらい)のヒロイン・すずが

実家でつくった海苔を

広島まで届けにゆく。

 

この場面にコトリンゴさんの歌う主題歌

「悲しくてやりきれない」が流れます。

 

空の輝きを眺めると

胸にしみて涙が出てくる、

悲しくて悲しくて・・・

とまあ、そんな歌詞なのですが。

 

映画が始まって1〜2分、

まだ何も起きていないんですよ!!

すずさん、

あなた何がそんなに悲しいの?!? 

 

原作の該当箇所を見ても、

すずがここで悲しみを感じていることを示す描写はありません。

 

いや、物語が終わるまでには

すずはいろいろ大切なものを失います。

兄は戦死。

両親は原爆投下で死亡。

妹は原爆症。

姪は米軍の時限爆弾のせいで爆死。

そして自分の右手もなくなる。

 

そのような映画の内容を要約するものとして

「悲しくてやりきれない」を冒頭に流した、

と解釈することはできるでしょう。

 

しかし。

この場面は昭和8年、

西暦なら1933年です。

 

じつは1933年、昭和初期の日本で経済が最も良かった年。

敗戦直後には

「昭和8年に帰ろう」というスローガンまであったほどでした。

 

のみならず。

いわゆる「昭和の戦争」は、この時点ではほとんど始まっていません。

 

満州事変(1931年)は起きましたよ。

満州国建国(1932年)もなされました。

しかし溥儀はまだ同国の執政にすぎず、皇帝にはなっていません。

それは1934年のこと。

 

まして日中戦争の勃発(1937年)は4年先。

真珠湾攻撃(1941年)となると8年先です。

空襲が日常化し、国内の被害がひどくなる1944年は11年先。

すずが右手をなくし、原爆が投下される1945年は12年先です。

 

・・・1933年の時点で「悲しくてやりきれない」を出してしまうと

すずの悲しみは戦争とは無関係である

ということになりかねないのです!!

 

東日本大震災前後の東北の日常を描く映画があったとして

冒頭の場面が1999年に設定され、

その時点で悲しみが歌い上げられたとしましょう。

 

「これは東日本大震災による悲しみを表しているのです。

映画のクライマックスは震災による犠牲ですので」と言われて、

納得しますか、あなた?

 

しかも。

 

「悲しくてやりきれない」自体が

加藤和彦さんのメロディこそ美しいものの

自分の悲しみを客観視しようとせず、

ひたすらそれにひたろうとする歌。

 

要するに、悲しみに酔う歌なんですな。

 

おまけに映画に使われたバージョンは、アレンジがえらく大げさ。

 

「悲しくてやりきれない」はもともと、

フォーク・クルセダーズというグループ(加藤和彦さんはこのメンバーです)が

1968年に発表した曲。

オリジナル版は彼らのアルバム「紀元弐阡年」で聴けます。

 

今もちょうど聴いているのですが

非常に素朴な感じのアレンジなんですね。

これがいい。

おずおずと心境を吐露するような演奏になっていることで、

曲にひそむ自己陶酔が緩和されているわけです。

 

ところが映画のバージョンは、オーケストラが饒舌に鳴り響くんですよ!!

 

コトリンゴさんの歌い方自体は

ささやくような感じなのですが

準備万端整えて悲しみを誇示するかのようなバックの演奏には

開幕早々、不吉な予感がしたと言わねばなりません。

 

その意味では、これを主題歌に選んだ時点で

映画が自己陶酔的になることも確定した気がしますね。

むろんそれは、片渕監督の自己陶酔の反映に違いない。

 

こう言っては何ですが

悲しみを歌った曲でも

中島みゆきさんの「悲しいことはいつもある」が主題歌だったら

かなり違っていたのでは。

 

というのも中島さん、

誰も悪くないのに、悲しいことがいつもある

という旨を歌っているのです。

つまりは自分の悲しみを客観的にとらえている。

そのほうが、映画のインパクトはずっと強くなったことでしょう。

 

で、すずさん。

あなた、のっけから何がそんなに悲しいの?

ではでは♬(^_^)♬