「おはよう寺ちゃん 活動中」、
いかがでしたか。
これからしばらく、
毎週水曜日は私がコメンテーターを務める予定です。
ちなみに番組で取り上げた
「金正恩鼻血ブー作戦」と
それがもたらすかも知れない恐るべき顛末については
あたらめて詳細にご紹介したいと思います。
寺島さん、CMの間に
鼻血ブーなんてよく名づけたものですね!
とおっしゃっていましたが
朝の6時からヘヴィな話題におつきあいいただくのです。
あれくらいのユーモアは必須でしょう。
だいたい元の英語は BLOODY NOSE ですから
忠実に訳しているのですぞ。
「出鼻をくじく」と訳した記事もありましたが
これだと
金正恩が軍事行動に出ようとするのを、機先を制して阻止する
という感じになってしまうので
ちょっと違う気がしますね。
鼻血ブー作戦は威嚇のための限定先制攻撃。
金正恩が軍事行動をたくらんでいなくとも、やるとなったらやりますので。
それはともかく。
おなじみ平松禎史さんが
コア・ディレクター、
絵コンテ(共同)、
そしてサブキャラクターデザイン(共同)で参加した劇場アニメ
さよならの朝に約束の花をかざろう
が、2月24日に公開されます。
今月22日からは
全国縦断の舞台挨拶つき試写会もスタートするとのことですが
マスコミ試写はすでに始まっています。
で、16日に私も観てきました!
ちなみにこの日の上映は記念すべきもの。
「さよならの朝に」のマスコミ試写は
昨年末から始まっていたものの、
作品が完全に仕上がったのは、平松さんによれば1月11日。
前回の試写は10日でしたから
16日の上映こそ
完成版が初めて披露された試写だったのです。
ネタバレにならない範囲でストーリーを紹介しましょう。
舞台となるのは、ヨーロッパ風の異世界。
ここには「イオルフの民」という人々がいます。
イオルフは十代半ばで外見の成長が止まり、
そのあと数百年生きる。
ですからイオルフの一生が終わる前に
普通の人間は何世代も交代することになります。
そのためイオルフと通常人が接触した場合
相手の死を看取るなど、
「見送る」ことになるのはつねにイオルフ。
このためイオルフは「別れの一族」とも呼ばれ、
通常人との接触を避けて、
人里離れたところに自分たちだけで暮らしている。
主人公は、そんなイオルフの少女マキア。
しかしある日、
メザーテという国の軍隊がイオルフの里に攻め込んでくる!
イオルフの少女を拉致し、
自国の王子と結婚させることで、
王家に長寿の血を導入しようと目論んだのです。
マキアと親しかった少女レイリアは
こうしてメザーテに連れ去られる。
やはり親しかった少年クリムも行方不明。
マキア自身も、制圧されたイオルフの里を命からがら逃げ出すことに。
ところが逃避行の途中、
母親を亡くした赤ん坊と出会ったマキアは、
赤ん坊を「エリアル」と名づけ、連れてゆくことにする・・・
こう書くと、
メザーテに拉致されたレイリアを
マキアとクリムが救出し、
三人(+エリアル)でイオルフの里を再興する
冒険物語になるのか?
と見当をつける人もいるでしょう。
ところが、微妙に違うんですよ。
レイリア救出の試みがなされないわけではない。
イオルフの里が再興しないわけでもない。
しかし映画のポイントは
メザーテの侵攻によって、否応なく普通の人間の世界で生きることになったイオルフたちが
自分たちの時間の流れ方と
通常人の時間の流れ方とのギャップに
どう折り合いをつけるか
にあるのです。
目の前でどんどん世の中が変わってゆき、
人が生まれては成長し、死んでゆくのです。
でも、自分たちは若いまま。
裏を返せば、時間が経てば経つほど
親しかった人との別れを何度も経験しなければならなくなる。
生きているのが辛くなるところです。
それでもなお、生きるとはどういうことなのか?
・・・じつはこの映画、
前半はちょっと方向性が見えづらい。
冒険物語風のオープニングが
なまじ良く出来ている(※)せいもあって、
時間と存在をめぐる抒情的なドラマになる感じがイマイチ弱いのです。
(※)メザーテ軍がイオルフの里に侵攻する場面は、
「風の谷のナウシカ」において
トルメキア軍が風の谷に侵攻した場面に匹敵する仕上がりでした。
だからというわけでもありませんが、
メインタイトルが出るのも
マキアがエリアルと出会ったあと。
上映時間でいうと、始まってから約20分後です。
つまりそれまではプロローグというか、
本題に入るための前置きなんですよ。
いささか長いのは否定しがたい。
しかし映画の後半、
赤ん坊だったエリアルが若者に成長し、
少女のままのマキアから離れてゆくあたりになると
ドラマの輪郭が見えてきて
ぐっと面白くなる。
あとはラストまで一気にゆきます。
その中に二つ、じつに感動的な見せ場がある。
映像的にも丁寧につくられた、いいアニメです。
マキアが世の変転を見届けて去ってゆく幕切れは
そう言えば、もう「平成」も終わりだなあ・・・
と実感させるものがありました。
ここで思い出すのが
1988年の傑作アニメ『AKIRA』。
じつは平松さん、
こちらにも動画で参加していたのですが、
『さよならの朝に約束の花をかざろう』は
どこか『AKIRA』とつながるものを感じさせる。
つまりですな。
『AKIRA』は昭和の終わりを宣言した作品だったと思うのですよ。
巨大な破壊から復興をとげた東京が
過剰なまでの繁栄の果て、ふたたび崩れ落ちる話ですからね。
実際、つくられたのも昭和が終わる前年です。
同様、
平成が終わる前年につくられた『さよならの朝に』も、
自分だけが時の流れに取り残されたまま、世の中がどんどん変わってゆき
親しかった人と別れねばならない物語を通じて
平成の終わりを静かに告げている気がしました。
そして『AKIRA』が
行け行けドンドン! という感じでパワフルだったのにたいして
『さよならの朝に』は
戦争をはじめとするスペクタクル・シーンも盛り込まれているのに
どこか繊細で静謐。
これもまた
二つの時代の違いを
よく表している気がするのです。
『さよならの朝に約束の花をかざろう』、
みなさんもぜひご覧下さい。
ちなみに鑑賞前、
以下の4冊を読んで
平成日本のたどった道や
世の移り変わりのあり方を再確認しておくと
もっと味わい深くなるかも知れませんよ。
平松さん、いい仕事を見せてもらいました!
ではでは♬(^_^)♬
6 comments
GUY FAWKES says:
1月 19, 2018
>同様、平成が終わる前年につくられた『さよならの朝に』も、自分だけが時の流れに取り残されたまま、世の中がどんどん変わってゆき親しかった人と別れねばならない物語を通じて平成の終わりを静かに告げている気がしました。
まだ当該作を視聴していない身ですが、岡田麿里女史原案、P.A.WORKS制作の長編アニメーションが
まさか時代評論の場に落とし込め得るとは方法論の範疇でしかないのかもしれませんが、平成生まれの私でも驚愕です。
こうしたアプローチは「たかが漫画やアニメにそんな意味深な含みがある訳ない」と一蹴されてきたものですが…
尤も,これは佐藤先生だからこそなし得る技巧でしょうけども。
SATOKENJI says:
1月 19, 2018
>「たかが漫画やアニメにそんな意味深な含みがある訳ない」
これについては昨年末のチャンネル桜の討論
「戦後日本人は変わってしまったのか?」の
2時間目と3時間目を参照のこと。
だいたい、わが国の文化のほとんどは
「たかが漫画やアニメ」以下にまで落ちていますからね。
GUY FAWKES says:
1月 19, 2018
>これについては昨年末のチャンネル桜の討論「戦後日本人は変わってしまったのか?」の2時間目と3時間目を参照のこと。
確と覚えております、『この世界の片隅に』が話題に上がった回ですね。
この回の我らが土木総統・藤井閣下のキレキレっぷりは去年最高の盛り上がりでありました。
かたや、表現者編集長であらせられた某先生に至っては残念ながら非常に狭量な見識を晒しておられたのが印象的でした。
(◯岡先生のことは個人的には好きなんですけども…)
>だいたい、わが国の文化のほとんどは「たかが漫画やアニメ」以下にまで落ちていますからね。
余談ですが、先日の豆腐メンタルさんとのやりとりでも交わしましたが、昨今のアニメ化されるライトノベルなんて
絵面と扱われる題材が異なるだけでみんな50歩100歩ですからね、みーんなラブコメ擬きばかり。
「たかが漫画やアニメでしょ」とされてしまえば若干腹立たしいとも感じますが、この現実を鑑みれば「漫画やアニメは実写を超えている!」とも思えません、あくまでも個人の目線ですが。
SATOKENJI says:
1月 19, 2018
「実写が漫画やアニメと比べても落ち込んでいる!」が正解では。
豆腐メンタル says:
1月 19, 2018
愛ゆえに、呼ばれてないのに失礼します。笑
今更ですが、佐藤先生の経路依存のお話は読んで即、私の腑に落ちました。
というのも、国内の音楽や映像や文字作品において、質の悪いパロディが多すぎる!と長い間不満に感じていたからです。個人的には平成に入ってから。今ではそういう作品こそが市民権を得てたりするのでしょうか。
しかし、真に気がかりなポイントは「パロディなのにどこも鋭くない」という点です。決してパロディ自体が嫌いなのではありません。
その鋭くないパロディが愛せるのは”同好会”においてなんじゃないでしょうか。外の世界では「お前の中ではな」状態。
「あれ?エンターテインメントって閉じられていたっけ?」とか「あれ?表現って”エグって共感”みたいじゃなかったっけ?」みたいな違和感を拭えず好きになれないのです。
最近では「表現者」の先生方により、私の違和感が思考に置き換えられています
(最近「おはよう寺ちゃん」の過半数曜日が表現者の先生ですね。月火曜を”前座”と明確にして、「おはよう表現者ちゃん」にしましょう。笑)
おふざけはさて置き。。質の悪いパロディは、インフラまたは身体性が欠如しているのだ、と観るようになりました。
パロディという経路に依存している側には、それなりの言い分というか合理があるのでしょう。商売の理屈もあります。また、デフレと同じでその時代の空気しか知らない人には私の言い分は通じないのかもしれません。
しかし兎も角、全体として非合理なのです。不健全?徒花?合成の誤謬?
てな訳で、昭和は共同体が崩壊する時代、平成は理性が崩壊する時代ということなのでしょうか。
アキラでは、集団や仲間に意義があるように思えます。漫画版アキラの最後は集団で走り去るシーンだったように記憶しています。その頃は観ていられた。これはクリントン・イーストウッドのように切実な感覚です。
さて、『さよならの朝に..』にの最後はどのようなシーンなのでしょう。そのうち観てみたいと思います。
あと、次の御世で崩壊するのは何でしょうね。感情が崩壊したりして。怖。
GUY FAWKES says:
1月 20, 2018
>というのも、国内の音楽や映像や文字作品において、質の悪いパロディが多すぎる!と長い間不満に感じていたからです。個人的には平成に入ってから。今ではそういう作品こそが市民権を得てたりするのでしょうか。
>しかし、真に気がかりなポイントは「パロディなのにどこも鋭くない」という点です。決してパロディ自体が嫌いなのではありません。その鋭くないパロディが愛せるのは”同好会”においてなんじゃないでしょうか。外の世界では「お前の中ではな」状態。「あれ?エンターテインメントって閉じられていたっけ?」とか「あれ?表現って”エグって共感”みたいじゃなかったっけ?」みたいな違和感を拭えず好きになれないのです。
わかりますわぁ…昨今の民放バラエティなんかでも言われてましたけど「内輪ネタ」というか
「曲がりなりにもプロが楽屋で盛り上がってる感じをお客さんに晒してる感(長い…)」ありありですよね。
悪い意味でアマチュア感が抜けきれてないのです、本来はそこをとっかかりに温故知新で漸進的に登っていく筈なのに。
>てな訳で、昭和は共同体が崩壊する時代、平成は理性が崩壊する時代ということなのでしょうか。
>あと、次の御世で崩壊するのは何でしょうね。感情が崩壊したりして。怖。
もしかすると、遂に「本音」や「本能」すらも破滅してしまうのでは…(苦笑)
誤魔化しに欺瞞を重ねてきた近現代日本にとって、素顔と仮面の区別がつかなくなるのは佐藤先生が上に並べられたるご著書からも至極当然な末路ですが。