昨日のブログ
「佐藤健志は保守か左翼か」には
多数のコメントが寄せられました。
やはり読者のみなさんも、
保守とは一体何なのか?
という疑問を抱かれているようです。
そこで今日は、いただいたコメントを紹介しつつ、
議論をさらに展開してゆきましょう。
まずはカインズさんより。
難しいですね。
日本が急激に悪くなっていっている際に漸進的な変化を唱えても、
果たして有効なのだろうかという疑問を抱きました。
悪くなるスピードがあまりにも速いときには、
保守派といえども相対的に主張が強くなるということもあり得るのではないでしょうか?
「主張が強くなる」というのは
「主張が左翼的(=急進主義)になる」ことを意味するものと思いますが、
ここにはいろいろ、考えるべき論点があります。
1)「日本が急激に悪くなっていっている」という認識が正しいとすれば、
漸進的なものであれ、急進的なものであれ、変化を唱えるだけでは十分ではありません。
良い方向への変化を実現させねばならないのです。
しかるに急激に悪くなっている国において、
良い方向への急激な変化はそもそも実現可能か? という問題があります。
なぜなら昨日も書いたとおり、
急激な変化は、たとえ良い方向へのものであっても、
それ自体としていろいろ副作用を伴うことが多い。
物事が急激に悪くなっている状況下では、
この副作用のもたらすマイナスが、
変化のもたらすプラスを帳消しにすることもありえます。
いや、プラスよりもマイナスのほうが大きい場合だってあるかも知れない。
2)前項の結論にたいしては、
それはやってみなければ分からないだろう?!
という疑問が寄せられるでしょう。
その通りです。
ただし問題は、
やってみなければ分からないこと、
つまり下手をすれば事態をいっそう悪くしかねないリスクが想定されることについて、
「世の中が悪くなるスピードが速すぎるのだから仕方ない」
という理由で、実行してしまって良いかどうか。
「良い」とする立場も、当然あるでしょう。
目的は手段を正当化する! という話ですね。
しかしそのような立場を取る者は、
「保守主義」本来の定義から言って、
保守派とは呼べないのではないでしょうか?
マゼラン星人二代目さんのコメントは、まさにこの点を指摘したものです。
いわく、
「主張が強」くなった時点で、
それは「保守」とは違う何ものかに変質しているわけで、
したがって「保守(派)」という名称は、似つかわしくない、
というのが佐藤先生のお立場ではないかと忖度(そんたく)します。
左翼的な主張をしつつ「保守(派)」を名乗る。
はたしてこれは、目的が手段を正当化するというだけで肯定しうるか?
けれども逆に、
そんな状況下で漸進的な変化にこだわりつづけるようでは
保守主義の有効性も知れたものではないか?
と指摘することも可能でしょう。
カインズさんのコメントも、その点では決して間違っていないわけです。
だから難しいのですよ。
つづきはまた明日。
ではでは♬(^_^)♬
6 comments
Hiramatz says:
10月 7, 2014
いつも楽しく… というよりは、楽しみを見つる切掛を頂いております。
いま日本の神話時代からの歴史を振り返っているところです。
そうすると、現代でもちょいちょい問題になる皇位継承問題が出てきます。
そういう時に有能な臣下が自身が皇族であったとしても相応しい跡継ぎ探しに奔走していたり、継承権を持つ兄弟がお互いに相手こそ相応しいと譲り合ったりする場面がありますね。
論理的に考えれば、なぜ経験豊かな臣下が継がないのか?順位が先の兄が継がないのか?と疑問に思ってしまいます。
しかし、危機的状況に遭った時こそ、論理(計算や設計主義的な考え)で得られる最善でなく次善の策をあえて選択する理由があったんだろうと考えます。
それは、今の時代からはわからないことですが、経験的にはわかります。
どう考えても正しいと思ってもそれによって起こり得る弊害を考え、次善の策を選択することがありますから。
なぜそうするのかは、明確には答えられないこともあったのだろうと思います。
自分の選択が正しかったかどうかを自分が(生きている間に)証明し得ると考えるか、次世代、次々世代が判断するだろうとするか。
どっちを選択するかでかなり違う気がします。
言い換えれば、先代、先々代が何をしてきたかを見るか、見ないか。でしょうか。
敗戦後の日本も、歴史を鑑みると、次善の策を選ぶことで民の安寧を最優先としたように思えてきます。
とすると、戦後体制からの脱却という設定自体が、「?」ということになってきます。
くらえもん says:
10月 7, 2014
私個人としましては保守は「伝統に思いを馳せるもの」、革新は「伝統を一顧だにしないor伝統を破壊するもの」と考えております。それでは、保守派の方々は「世の流れが革新的である場合、この流れを保守するべき」あるいは「流れを変えるとしても、ゆっくり変えるべき」と考えるのでしょうか?それは違うでしょう。
保守は伝統に思いを馳せるからこそ漸進的にならざるを得ないのであり、ゆっくりと変えることそのものが目的ではないと思います。保守は漸進的ですが、漸進は保守的とは限りません。伝統を一顧だにしないのであれば、たとえゆっくりと変えようがそれは革新であり保守とは呼べません。なぜ、伝統に思いを馳せるべきかと言うと、これまで積み重ねられてきた「歴史の良心」が、よき変化への道標となる可能性が高いと考えられるからです。
仮に伝統が軽んじられるのが世の潮流だとして、その流れを食い止め、伝統に思いを馳せてみようという潮流に変えるべきと保守派の方々が考えたとしましょう。おそらく、それはとても「時間のかかること」ではありますが、「時間をかけるべきこと」とは思えません。なぜなら「時間をかけること」が目的ではないからです。あくまでも「伝統に思いを馳せること」が目的(その上位には「よき変化」という目的がある)であるからです。
「伝統を一顧だにしないこと」も伝統の一つか?それは「伝統」ではなく単なる「因習(悪習)」でしょう。ただ、「伝統」と「因習」を見分ける方法は結構難しいのかもしれませんが。
つづきが楽しみですね。
むっつー says:
10月 7, 2014
日本のいわゆる保守は左翼だと思います。
私は外国で暮らした事が無いのでわかりませんが、
日本ではその保守が主流でしょうし、政治家はどうしても主流に近づこうとしてしまうものだと思います。
ただ、それならば野田元総理が言っていたような、中庸とか、そういう表現をしてほしい。
いわゆる保守を自認している人は、保守の歴史からくる正統性?のようなものにもたれかかって、
自分を大きく見せたり、自己肯定しているように感じます。
勘違い潔癖性とか、勘違い健康志向とか、そんな人と同じように見えます…。
spirit of conservative says:
10月 7, 2014
あなたは保守ではありません。
あなたは朝日新聞を糺す国民会議に参戦していないではないですか。
「朝日新聞の解体」という保守にとって聖戦ともいえる戦いに参戦していない。
・・・。
百の言葉より一の事実というやつです。
SATOKENJI says:
10月 7, 2014
(↑)これについては私のメルマガ「朝日に塩を送る保守派」を、ぜひご覧になるようお勧めします。
http://chokumaga.com/magazine/free/152/3/
百の事実より一の真実ということもあるのですよ。
メルマガは有料ですが、30分を越える音声ファイルもついており、値段の価値は十分以上にあるでしょう。
音声ファイルでは、「糺す国民会議」のアピール文も紹介しています。
出直せ says:
10月 7, 2014
> spirit of conservative
改名をオススメします。
次のうちから一つお選び下さい。
spirit of cherry blossom
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