昨日の話のおさらいから行きましょう。

 

保守主義は本来、急激な変化を否定するものだとしても

社会の状況が急速に悪化しているときは、

保守派が現状を短兵急に変えようとすることも許容されるべきではないか?

 

という趣旨のカインズさんの意見にたいして、

マゼラン星人二代目さんから、

 

現状を短兵急に変えようとした時点で、それはもはや「保守」ではないのではないか。

 

という趣旨の意見が来たわけです。

 

マゼラン星人二代目さんはつづけて

急進的な主張をするにいたった保守にふさわしい呼称を

いくつか提案しています。

 

「攘夷」とか、

それこそ、

「維新」とか。

 

それから

「ユルトラ ultra」

というのもお勧め。

 

・・・とのこと。

 

最後の「ユルトラ」は、

フランスの王政復古期(1815年〜1830年)における右翼勢力

「ユルトラ王党派」にちなんだものでしょう。

 

これにたいして、カインズさんはこうコメントしています。

 

私が言いたいのは保守派が大事にする「漸進性」にも

ある程度の弾力、幅があるのではないかということです。

社会や言論の状況が変化し、従来の主張を繰り返しているだけでは、

保守派が守らんとする伝統が破壊されてしまうという時には、

保守派といえどもその態度や主張をある程度強める(注:急進的にする)ことも必要ではないかと思うのです。

基本的な価値観を損なわない程度において主張・態度を強めるだけならば、

保守派が坂道を転げ落ちるように「攘夷」や「維新」となることはないのではないでしょうか。

 

カインズさんの主張、なかなかもっともです。

ただし、気になるのは以下の箇所ですね。

 

保守派といえどもその態度や主張をある程度強めることも必要ではないかと思うのです。

基本的な価値観を損なわない程度において主張・態度を強めるだけならば、

保守派が坂道を転げ落ちるように「攘夷」や「維新」となることはないのではないでしょうか。

 

太字にした部分にご注目。

「ある程度強める」の「ある程度」は、

実際にどのくらいでしょうか。

 

保守主義の基本的な価値観を損なわない程度の急進的な主張とは、

具体的にどのあたりまででしょうか。

 

これについて、しっかりした線引きができないかぎり

「われわれは保守主義の基本的な価値観を損ねてはいない!」

と言い張りつつ、

保守派がどんどん急進化することもありえます。

 

だとしても、そんな線引きは現実に可能なのか?

 

むしろその場合、

保守派は自分たちが保守主義の原則を逸脱していると、

素直に認めたほうがいいのではないでしょうか。

たとえば、以下のような具合にです。

 

現在のわれわれの主張は、保守主義本来の姿勢に基づいたものではない。

しかし日本の状況は、このような逸脱なしにはいかんともしがたい。

したがってわれわれは、「保守」でなくなる危険を犯してでも

救国のために急進的な主張を展開するものである。

 

事実、エドマンド・バークは「フランス革命の省察」において

新王ウィリアム三世の即位を同様の論理で肯定しました。

 

ウィリアムが新たな王に選ばれたことは、

世襲による王位継承の原則を厳密に守ったものではない。

しかしこれは内戦の危機を回避し、

イギリスの国体を維持するための例外的な措置だったのであり、

そのかぎりでは、理にかなった必然の選択だった、と。

 

 

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しかし「戦後体制の解体」などという

急進左翼顔負けのスローガンを唱える保守派に、

そのような逸脱の自覚は見られるでしょうか?

 

つづきはまた明日。

ではでは♬(^_^)♬