「戦争責任」という言葉には、

次の2つのニュアンスがつきまといます。

 

1)この責任は、アジアの人々にたいするものである。

2)この責任は、謝罪や反省(ついでに賠償)を伴うものである。

 

しかしこれは、

「戦争責任」を云々したがる人々がつくりあげた

固定観念にすぎません。

 

アジアの人々にたいするものではない戦争責任

あるいは

謝罪や反省とは関係のない戦争責任

それどころか

謝罪や反省を(いささか安易に)しすぎたことによって生じる戦争責任

というものも、ありうるのではないか。

 

これこそ昨日の記事で触れた

「別のものにたいする戦争責任」です。

 

ならば「別のもの」とは何か。

昭和前半期の戦争において、

日本の正義を信じて死んでいった人々。

これです。

 

この人たちにたいして

われわれはちゃんと報いたと言えるでしょうか?

 

私にはそうは思えません。

 

毎年、8月15日がくると

「戦没者の尊い犠牲のうえに、今の平和で繁栄するニッポンが・・・」

といった台詞が、追悼式典で繰り返されます。

 

しかし。

敗北によって終わったとはいえ

あの戦争において、日本には日本の正義があった!

国の方向性が大きく変わったとしても

われわれは決して当時の正義を否定したわけではない!

 

追悼の席で、こうハッキリ言った人がどれだけいるでしょうか。

 

そりゃ、言いにくいとは思いますよ。

降伏後、日本は敵国だったアメリカにたいし、

協調、ないし従属することで

戦後の繁栄を築いたんですから。

 

でもこれって、

日本の正義を信じて死んだ人々を裏切ることで

豊かさを手に入れました

ということですよね?

 

「日本には日本の正義があった」と言わないかぎり、

われわれは戦没者について

間違った目的のために戦って死んだ人々

と見なしているにひとしい。

たとえ彼らの犠牲のうえに

現在の日本があるとしても、です。

 

つまりわれわれは

日本の正義を信じて死んでいった人々に

捧げるべき感謝を捧げていない。

それどころか、彼らを裏切ったまま70年近くを過ごしてきた。

 

これもまた、ひとつの罪に違いありません。

そして罪は責任を伴う。

 

だからこそ「戦争責任」という

他のどこにもない言葉が生まれ、

それがずっと生きつづけることになったのではないでしょうか。

 

その意味で「アジアに人々にたいする責任」云々という議論は

私に言わせれば、

 当事者も自覚していない現実逃避、

あるいは問題の本質を隠すためのカモフラージュにすぎない。

 

自国の先達たちを裏切って繁栄を築いた、

この真実に直面するよりは

他国の人々にたいして、反省のポーズを取りつづけ、

それが戦争責任なんだと言い聞かせるほうが

よほどラクじゃないですか。

 

戦争責任論の多くが的外れであるからといって、

この概念が無意味であることにはならないのです。

 

ではでは♬(^_^)♬