日本国民は

先の戦争の顛末について

どこか後ろめたさがあり

だからこそ「戦争責任」の議論が

それなりの影響力を持ってしまう。

 

こう書くと、

中国や韓国にたいして、いつまでも謝罪して貢げと言うつもりか?!

と興奮する人々がいます。

 

なるほど、

「戦争責任」を論じたがる人は

アジアの人々にたいする謝罪と反省

というフレーズを

呪文のごとく唱える傾向がある。

 

その影響だと思いますが、

私が言わんとしていることは違うのですよ。

 

整理すればこういうこと。

1)戦争責任論者は、アジアの人々にたいする謝罪や反省にこだわる。

つまり彼らは、日本人はアジアの人々にたいし、

後ろめたさを感じるべきだという立場を取っている。

 

2)一般の日本人は、そのような後ろめたさは感じていない。

ただし彼らは、何か別のものにたいして、

果たすべき責任を果たしていないという後ろめたさを感じているのではないか。

 

3)この二つの立場、本来は異なっているものの、

「後ろめたさ」で接点を持ってしまう。

よって、第二次大戦の敗北に伴うペナルティは処理済みであるにもかかわらず、

日本では「戦争責任」をめぐる議論が生きつづけ、

それなりの影響力を持つ。

 

ならば、日本人が後ろめたさを感じている対象、

「別のもの」とは何か。

 

こう書くと、話がノストラダムスっぽくなってきますね。

五島勉先生によれば、ノストラダムスは

「1999年以前に『別のもの』が出現すれば、

人類は破滅をまぬかれる」

と語っていたそうなので。

 

1999年の破滅が起こらなかったのも、そのおかげかも知れませんよ(笑)。

 

「別のもの」は何か?

このヒントになりそうなのが、

アジアの人々の中には

謝罪や反省とは異なる形の「戦争責任」を問うている者もいるという事実。

 

第二次大戦中、

日本軍に参加して戦った台湾の人たちです。

 

彼らの対日感情は良い。

しかし、不満も持っている。

つまり日本のために戦った自分たちにたいし、

戦後、日本政府が一切の感謝を表明していないことに怒っているのです。

 

戦争責任=謝罪・反省(ついでに賠償)

とばかり決め込むのは

左翼、および中国・韓国の主張にとらわれた

ワンパターン発想。

 

感謝すべき相手に感謝するのも戦争責任のうちなんですよ!!

 

ではでは♬(^_^)♬