戦争に負けた側の国が

平和な外交関係を復活させる条件として

さまざまなペナルティを課せられる

 

これが「戦争をめぐる国家の責任」だとするなら

第二次大戦に関する責任を

日本はちゃんと済ませています。

 

しかるに日本では「戦争責任」という

事実上、他国には存在しない概念

今なお生きつづけている。

 

しかも「戦争責任」には

三つの面白い特徴があります。

 

1)何についての責任なのかがハッキリしない。

2)責任の及ぶ範囲が、どこからどこまでなのかハッキリしない。

3)どうやったら当の責任を取れる(=以後、責任が消滅する)のかがハッキリしない。

 

つまり、きわめて曖昧な概念なんですね。

この三点をハッキリさせないまま

「責任」を云々するのは

じつは無責任なこと。

 

「戦争責任」ならぬ「戦争無責任」と言ってもいいくらいです。

 

なるほど、第二次大戦については

連合国=善、枢軸国=悪

の図式が定着している。

 

その意味では「戦争責任」も

法律的な責任よりは

道義的な責任に近いものなのでしょう。

 

だとしても、枢軸側に属していたら最後

道義的責任が永遠について回る

というのは、明らかに理不尽な話。

 

どうして、こんなことになっているのでしょうか?

 

こう書くと、

それは反日勢力が日本を貶めるような言動を繰り返しているからだ!

という反応がありそうですが、

事はそう単純ではありません。

 

かりにそうだとしても、

なぜ反日勢力の言動が、そこまでの影響力を持ってしまうのか?

という問題が残るからです。

 

メディアを操れば、どんなことでも吹き込めるのさ!

こんなふうに見なすのは

一般国民、ないし民衆をバカにした発想。

 

民衆には頑固なところがあって、

受け入れたくないことは結局、受け入れません。

 

昭和前半期の熱烈なナショナリズム、いわゆる国粋主義だって

「悪い政府が国民をだました結果」というのは

一面的な説明にすぎない。

 

国民の側にも

「ナショナリズムに徹しないかぎり、時代の流れに取り残される。

ついでに政府の言うとおり頑張ったら、いずれ自分たちにもメリットがあるだろう」

という期待があったに違いないのです。

 

裏を返せば「戦争責任」の議論が

今なお生きつづけているのは

国民の側にも、どこか後ろめたさがあるから

と解釈するのが自然ではないでしょうか?

 

やっぱり、オレたちは責任を取らずにごまかしたんだよな・・・

そんな気分があるせいで

「戦争責任は終わっていない!」という主張にも

ついつい耳を貸す次第。

 

ならば、この後ろめたさの正体は何か?

 

つづきはまた明日。

ではでは♬(^_^)♬