連日、このブログを賑わせている
九条せんべいですが。
あの条文を文字通り
自分の中に取り込むことで
完全に一体化したいという発想について
ちょっと考えてみましょう。
これはどう見ても
カソリックなどにおける
「聖体」の概念と瓜二つ。
聖体とはご存知の通り、
キリストの身体を表すウェハースです。
最後の晩餐のとき
キリストがパンを裂いて
「取って食べなさい。これはわたしの身体である」と語り、
ついでワインの入った杯を取り
「皆、この杯から飲みなさい。
これは、罪が赦(ゆる)されるように、
多くの人のために流されるわたしの血、
契約の血である」
と語った、というエピソードに由来します。
(マタイ福音書、第26章26〜28節)
実際、カソリックの教義では
聖職者が聖体に祈りを捧げるとき
聖体は見かけ上、ウェハースにすぎなかろうと
じつはキリストの肉に変わっているのである
ということになっています。
これを「聖変化(transubstantiation)」と呼びます。
してみると
九条を真に信じるものが
九条せんべいに祈りを捧げるとき
せんべいは見かけ上、ただの瓦せんべいや玉子せんべいであっても
じつは九条そのものに変わっているのである!
ということになるでしょう。
これを「九条聖変化(Article Nine Transubstantiation)」と呼ぶことにしたいと思います。
それはまあ、
キリストと違って
九条には肉体(!)がないわけですが、
このハードルだって、越えられないわけじゃない。
ヨハネ福音書の冒頭には、こう書かれています。
初めに言(ことば)があった。
言は神と共にあった。
言は神であった。
(中略)
言葉は肉となって、
わたしたちの間に宿られた。
わたしたちはその栄光を見た。
それは父の独り子としての栄光であって、
恵みと真理とに満ちていた。
(第1章1節、および14節)
キリストの正体も、
じつは言葉だったのです!
ならば九条せんべいを食べることは、
九条を肉として、
自分たちの中に宿らせること
と言えるでしょう。
この続きはまた明日。
ではでは♬(^_^)♬
6 comments
ponkotsu says:
8月 14, 2014
「九条せんべいを護憲派は割って食べてはならない」どころか口に入れても噛まずに丸飲みするのが正しい食べ方ではないでしょうか?
マゼラン星人二代目 says:
8月 14, 2014
>この続きはまた明日。
興味深いのは、この相似が単なる偶然なのか否か、です。
今後、その点をご教示願いたい。
buttmedd says:
8月 14, 2014
道行きの末端に連なる者としては、ご聖体と「九条せんべい」とを同等に扱った佐藤さんに厳然と抗議すべきなのかも知れませんが、何しろ黒い羊なので、読みながらふるえが止まりませんでした。書いてあるのを音読した経験は佐藤さんのブログが初めてです。
いまの教会は「一匹と九十九匹」の著者が知ったらぶっ倒れるのではないかと思うほど政治的、しかも見事にレフトです。九条健志、違った、九条堅持で現憲法ダンコシジの集会が、九条の会会員の神父さまを先頭に催されています。逆に、九条反対、憲法改正賛成の集会は、私の所属する教会に限って言うと、受洗以降ただの一度も目にしたことがない。そういう意味でいまだ救いの機会に恵まれない一匹です。
教会にはまた「正平協」という朝日のように赤い組織があり、御ミサの後、ジーパン姿の女の子がマイクを取って賛助を呼びかけます。悪い人たちではないのでしょうが、聞いているとあんまりなので、ご聖体の味のような神父さまのお説教を拝聴しているとき以上につらく、自分がわざわざネクタイを締めているのもばからしく、どうしてもからだがふるえてきます。さっさと帰ってもいいのですが、この後、珈琲とクッキーの購入協力が前庭であり、断食明けにちょうどよくて、楽しみなのです。
九条せんべい、いまの教会で出せば、おそらく飛ぶように売れますことでしょう。
でも佐藤さん、あなたはやっぱりいけない人です。ご聖体を預かる度に佐藤さんの「九条を肉として自分たちの中に宿らせる」を思い出してしまうじゃないですか。一体どうしてくれるんですか。
SATOKENJI says:
8月 14, 2014
失礼しました。
とはいえ、平和の君もこう語っております。
「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」
(マタイ福音書、第13章29〜30節)
もっともこのお方、
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである」
(同、第10章34〜35節)
と、九条をモロに否定するようなことも語っておられますね。
九条の会会員の神父さまは、これをどう解釈するのでしょうか?
akkatomo says:
8月 14, 2014
言語を内面化するにあたっての象徴的行為というのは実に興味深い
この事は、ご飯の前の頂きますから始まって葬式でのお経まで同じなのでしょうね
buttmedd says:
8月 15, 2014
佐藤さんのご賢察通りです。バチカンは自衛のための戦争を否定していないのです。前の、前の法王さまも「善だけでなく悪からも学ばねばならない」と説いておられたそうです。戦争が悪ならば、それこそ真正面から考えなければならないはずなのです。そのことをよく解っておられる、思考が停まっていない神父さまを何人か存じ上げていますが、集会の傾向を眺めるに、多数を占めているようには思えません。
「下男たちが主人のもとに来て、〈ご主人さま、畑にまかれたのはよい種でしたのに、それにどうして毒麦が出たのですか〉と尋ねた。主人は〈敵がしたことだ〉と言った」
(同第13章27~28節)
たとえ話の毒麦は夜、寝ている間に撒かれた。夜間は多くの人が休むから、聖書はその点を特に問うてはいない。しかも毒麦を撒くような敵が常在するのが当然という前提ですよね。然るに「平和を愛する諸国民」なる妄言を盾に戦後ひたすら眠り続けてきた私どもの体たらくは何とすべきか。毒麦をはびこらせ、抜き集めることもしない、用心を他人任せにし、陰謀を口にするばかりで陰謀に抗おうとしない私どもを、反戦平和を希求する上で致し方がなかったと、果たして寛容の内に含めて下さるかどうか。
佐藤さんが九条せんべいをご聖体の概念にたとえたこと、これが日本のカトリックにとっていかに痛烈な皮肉であるか、私なりに少し深刻に受け止めて、しかし、大きな声じゃ言えないから小さな声で言いますが、こみ上げてくるものを堪えながら大変意義深く拝読した次第です。失礼いたしました。