先週、「著作関係」および「言葉と呼吸」カテゴリーに出した記事

「単純化もできない議論の果てに」をめぐり、

あるスレッドに面白いコメントが出ているのを見つけました。

 

この記事では

「VOICE」9月号に掲載された私と中野剛志さんの対談

「日米関係のコモン・センス」にたいする

永田伸吾さんという人の批判を紹介、

彼の思考能力、文章能力、および正常な日本語の感覚のすべてについて

率直な疑問を呈したわけですが。

くだんのコメントには、こんな趣旨のことが書いてあったのです。

いわく。

 

ダンス(つまり私)の反論の仕方は

「人生に敗れた女」に引導を渡す手法そのものである。

ダンスは紳士なので、

本物の女にたいしてこれをやることはないだろう。

しかし女の腐ったような男には

遠慮なくやるわけだ。

 

元のコメントをご覧になりたい方はこちらをクリック。

コメント274です。

 

私が紳士だというのは、的確な認識ですね。

ただし永田さんが人生に敗れているのか、

はたまた女の腐ったような男なのかについては、

面識がないこともあり、判断いたしかねます。

 

名前が「伸吾」なので

とりあえず男であるとは思いますけど。

 

ただし永田さん、

何やら再反論のごときものを試みてはいました。

 

失礼ながら、前回よりさらに論旨不明。

 

自尊心を傷つけられてヒステリックになりつつも

学者らしい冷静さを取りつくろった(つもりの)文章には

ある種、心打たれるものを感じなくもないのですが、

これは別の話でしょう。

 

というわけで、ことさら取り上げることはしません。

興味のある方は、「単純化もできない議論の果てに」1回目に記したURLから

アクセスしてみて下さい。

 

もっとも、

やらないほうが傷が(まだしも)浅くてすむにもかかわらず

こういうことを、ついついやってしまう

というか

やらずにいられなくなるところに

永田伸吾さんの人柄が垣間見えるとは言えます。

 

くだんの心理的メカニズムについては、当然、この本をどうぞ!

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永田さん、とくにあなたは必読ですよ。

中野剛志さん、藤井聡さん、白井聡さんといった方々が

そろって絶賛しているんですからね。

 

けれども、永田さんのことはさておき、

「人生に敗れた女に引導を渡す」という表現と

「女の腐ったような男」という表現を結びつけた文章には

じつに興味深いものがありました。

 

よって以下では、

永田伸吾という特定の個人に関するコメントとしてではなく、

人間のあり方一般に関するコメントとして、

「人生に敗れる」ことと「人間が腐ること」の関連を考えてみたいと思います。

 

誰であれ、人生に勝ち続ける人はまずいない。

というか、どんな人生にも挫折はつきもの。

老いや死を逃れることはできないんですからね。

 

したがって、人生に敗れたら最後、

人間が腐るというわけではありません。

まあ、どの程度「敗れる」かにもよりますが、

挫折してなお、明るく前向きな人も多い。

 

他方、たいした挫折をしたとも思えないのに、

妙にひねくれて、腐ってしまう人もいる。

 

両者の違いはどこにあるか?

ずばり、被害者意識の有無だと思うのですよ。

 

被害者意識とは何か。

私はこう定義します。

 

何らかの第三者の存在、ないし行動のせいで

本来なら享受できてしかるべき待遇や評価が得られないと思い込むこと。

 

これが意味することは、以下の通り。

1)自分は不遇、ないし不幸な状態に置かれている。

2)自分には本来、もっと良い状態に置かれるだけの能力や才能がある。

3)自分が不遇・不幸な状態にあるのは、何らかの第三者のせいであり、ゆえに自分の責任ではない。

4)ただし自分は、不遇・不幸な状態を是正する力を持っていない。

 

上記の4つの命題の中に矛盾がひそんでいると気づいた人、手を上げて!

 

そうです。

2)自分には本来、もっと良い状態に置かれるだけの能力や才能がある。

と、

4)ただし自分は、不遇・不幸な状態を是正する力を持っていない。

の間に、論理的な整合性はありません。

 

2)の命題が正しければ、不遇・不幸な状態を自力で是正できなければおかしい。

4)の命題が正しければ、もっと良い状態に置かれるだけの能力や才能があるとは信じがたい。

 

つまり被害者意識とは、

自分の現状をめぐる不満や苛立ちを「八つ当たり」的に発散しようとするものであり、

恨みがましくも他力本願な心情と規定できます。

 

ちなみに上記の4命題、

「自分」を「安倍晋三」に置き換え、

「第三者」を「アメリカ」に置き換えると、

ある種の人々による現政権擁護論によく似てくるのですが、

これは脇に置きましょう。

 

恨みがましくも他力本願である以上、

被害者意識は悪い意味で女々しい。

 

コメントの中に「人生に敗れた女」というフレーズが出てくるのも、

その意味では理解できます。

 

しかし女が、いつも女々しいとは限らないし、

逆に男が、いつも雄々しいとも限らない。

 

それどころか大島渚さんなど、

「男は度胸、女は愛嬌」というのは実質的なウソで、

本当は「男は愛嬌、女は度胸」だとまで言っています。

 

「男は度胸、女は愛嬌」は、よほど出来た男と女にのみ当てはまるのだと。

 

どういうことかと言うとですな、

男でも女でも、持ち合わせて当たり前と思われていることで傑出するのは難しいのですよ。

だから度胸が際立つ男も、愛嬌が際立つ女も、めったにいない例外的な存在。

逆に男の愛嬌とか、

女の度胸は、

もともと期待されていないだけに、傑出するのも大変ではない。

よって「男は愛嬌、女は度胸」という次第。

 

いいかえれば「人生に敗れた女」のごとき

恨みがましくも他力本願な振る舞いにしたところで、

女ではなく、男のほうで目立つことになる。

 

そういう男に限って

自分は女じゃないんだから、女々しい振る舞いなんてしているはずがない

と、錯覚していますからね。

 

これを「女の腐ったような男」と呼ぶわけであります。

 

コメントを書いてくれた人は

私が紳士であるがゆえに、

本物の女にたいしては、人生に敗れていたとしても引導を渡すことはしないだろうと述べました。

 

しかし本当のことを言ってしまえば、

本物の女は、たとえ挫折を経験していようと

「人生に敗れた女」のごとく振る舞わない場合が多い。

被害者意識に陥ることなく、自分の気持ちをコントロールできるのです。

 

「人生に敗れた女」のごとく振る舞うヤツは

じつは男のほうにずっと沢山いる。

つまり「人生に敗れた女に引導を渡す」ことは

「女の腐ったような男に引導を渡す」ことと

もともと、実質的にイコールなのです。

 

ただし、何にでも例外はある。

世の中には「男の腐ったような女」というのもいるんですな。

こんな女が人生に敗れると大変ですよ。

 

自分は(女であろうと)男らしいんだから、女々しい振る舞いなんかしているはずがない

と思い込みつつ、

自分は(本当は)女なんだから、女々しい振る舞いをしても許される

と甘え、同時に

自分はそこらの女とは違うはずなんだから、女々しい振る舞いをしても雄々しい

と自己欺瞞の深みにハマる。

 

まかり間違って、近くにそんなのがいたら、ただちに引導を渡すべし!

でないと巻き添えを食いますからね。

 

ではでは♬(^_^)♬