ご存知のとおり、
病院というのは就寝時間が早い。
夜の9:00には消灯です。
今ではすっかり慣れましたが
入院したてのころは、真夜中あたりに目が冴えたりするんですね。
とはいえ、やることもないので
いろいろ物思いにふけっていると
妙に思い出されるのが、1970年代のことなのです。
当時の東京の様子とか、
流行っていた映画やアニメとか、
学校や世の中の雰囲気とか。
ノスタルジアというのは
本質的に過去を美化する特徴があるので
その点は割り引かないといけないのですが
それにしても感じられるのは
あのころの方が、日本はいろいろな意味で安定していたんじゃないか、ということ。
1970年代、
「グローバル化」なる言葉は存在すらしていなかった。
いや、「国際化」だって
さほど叫ばれてはいなかった。
「国際化」がスローガンとして流行するのは1980年代です。
いいかえれば
日本という国の輪郭が、まだまだくっきりしていた時代なんですね。
そのことが、社会に安定感をもたらしていた気がします。
・・・いや、
石油危機(1973年)やロッキード事件(1976年)をはじめ、
世を騒がせた出来事は多々ありましたよ。
社会にたいする不満も、当然、存在していたでしょう。
しかし1970年代、
日本人の中流意識は9割を超えていた。
格差が拡大し、
子供の2割は貧困といわれる現在と比べてみて下さい。
文化的にも、
風変わりで刺激的なものがいっぱいあった気がします。
施光恒さん風に言えば
土着性と近代性が拮抗し、せめぎあっていたのでしょう。
それから40年あまり。
この国は本当に、正しい方向へと進んだのでしょうか?
・・・そんなことを考えているうちに
また眠くなってくるのでありました。
ではでは♬(^_^)♬
5 comments
buttmedd says:
10月 1, 2015
当時、小学生でした。テレビアニメはスポ根ものが大嫌いで、ひたすらギャグ一途、タツノコ
プロのタイムボカンシリーズを見てました。オタスケマンだと80年に入るでしょうか。
オタスケマンの最終回、素性のばれたオジャママン四人組が、地球めがけて一直線に猛進して
くる何とか彗星の軌道を変えて地球を守るべく、コックピット内で手と手を取り合って彗星に
体当たりする意思を決めるでしょう。あ、これが大人たちの言っていたSuicide attack か
と思いました。しかもすごくあっさりした描写で、意味あり気な厭らしさが全然なかったのを
いまだに覚えています。
マンガは『こち亀』を読んでました。ラップなんてされてなかったから立ち読みできました。
とくに江戸川を挟んで西側の風景が殷賑を極めて近代的、対して東は佐原へ何里の道しるべが
傾いて立ち、未舗装の道を馬引く人の姿が哀れで万事が鄙びている、みたいな千葉県に対する
愛情(?)が70年代は頻出、満ち満ちていて、何度読み返してもたまらなかったです。
右も左もなく、戦前からのものを引き受けた人たちが時代を作っていたのでしょうね。
どうかお大事になさってください。
フルート says:
10月 1, 2015
一般病棟に移られても
消灯時間ですとか
いろいろ制限されてしまいますよね…
ですけど年末に刊行が予定されている
次の本のお話を聞けて
私はとても励みになりました。
絶対に買います!
ノスタルジアと体とインフラの事を考えていたら、
全部記憶ととても関係が強い事に気付きました。
記憶を宿している体とノスタルジアが
記憶と関係が強いのは当たり前と言えば当たり前なのですけど、
学校が廃校になるとか、町全体が衰退していく光景を思い浮かべると
自然とノスタルジーが沸き上がって来るのは、
人間の体と心が、記憶を伴いながら人それぞれの用い方で
その建物を使ったり、その建物によって自分の体の使い方や
心の変化を記憶したりしたからだと思いました。
自転車で行ける距離に、通路の天井板が震災で剥がれ落ちても
それを治すお金が無くて、本当は見せちゃいけない中のパイプとかも
薄暗いけど下から覗き込むと見えてしまう、そんな
ずっと「節電営業中」のままの、ほとんどお客さんが来ない
映画館とかがあるのですが、以前そんなシャッター商店街
(というか本当はシャッター駅街・・)の中で
一番大きかったデパートの閉店セレモニーがあって、
それを見ていた時の事を思い出しました。
閉店セレモニーは、冬の夜風が冷たい中で始まって、
最後のおめかしのイルミネーション、
泣き始めたあと止まらなくなってしまった従業員さんの涙・
「今までありがとう!!」と叫んだおじさんのねぎらいの声と・
それに続いたお客さんおそらく全員の暖かい拍手・・
いろいろな事を覚えているのですが、
セレモニーに途中から参加した(というか通り掛かった・・?)
ヤンキー風の男3人組の言動が、
最初私の少し近くに足を止めて
お店と関係ない話で大声を出しながら3人でしゃべっていた時と、
セレモニーが終わって、最後までそれを見届けたお客さんが
それぞれの家路に分かれようとしている時とで
どことなく変わっていた事を覚えています。
多分変わり始めたのは
従業員さんの涙が止まらなくなったあたりだったように思います。
人の心を一番動かすものは、当然人の心だと思うのですが、
生活の場であり記憶の場であった建物に、
今こうやって最後のおめかしをして
感謝の気持ちを顕して、本当のお別れをする時、
建物が人の心や記憶を呼び覚まして、
普段意識出来ていた以上の意識を感覚させた面もあったんだと思いました。
3人組のヤンキーも何かを感じていたし、
もっと感じようとしている様でした。
そんな事を思い出しました。。
フルート says:
10月 8, 2015
一か所だけ訂正させて下さい..。
2段落目の下から3行目
「記憶を伴いながら~」は
「記憶に頼りながら~」の間違いです。。
すみませんでした。。
頓珍漢 says:
10月 6, 2015
>流行っていた映画やアニメとか、
小さい頃は(住んでいる田舎の)街にも小さい映画館がありました。ゴジラやギャオスやミニラやガメラをよく観ていました。流石にカメラを買う財力は無く日活○○○系は見ていませんでした。(支離滅裂)
今では映画なんて車で移動しないと全く観れなくなりました。映画館が無い県もあるんですよね。なんとなくインフラ成長論が廃れていた・・・・ことに繋がると私的には思うのですが。
田舎は確実に過疎は進行中だと思います。車の移動の凄まじい量は感じるのですけどやはり町並みは過疎(貧乏)化している実感ばかりです。どう考えても政府のがま口を閉じまくる政策継続思考のセイです。私的にもコンプレックスばかりが増大しています。私はルサンチマンなのでしょうか。
ほんとに日常にかまけて、マクロ(デフレ)思考的には発展途上国化施行していることに政治家他は気づいていないのでしょうね。(全く私が言える事ではありませんけど)
事故は大事に至らなくてよかったですね(なんでだろうと私的勝手想像してたのは、あ、もしかしたらネオ・ゴジラの映画に出演撮影されていたのかもしれないと思っていました)。病院にいるとスリムアップされているのではないでしょうか。・・・・食事制限はないかな。
失礼しました。
SATOKENJI says:
10月 6, 2015
食事制限はありませんが、退院までは間食を一切しないことに決めています。
体重が増えると、足首に負担がかかりますので。