昨日の記事

「安保法制反対デモで孫が死んだ、という虚偽ツイート」について

GUY FAWKES さんから

面白いコメントが来ました。

 

主要部分を抜粋します(全文をご覧になりたい方は昨日のコメント欄をどうぞ)。

 

これは私のこじつけかもしれませんが、

そもそもこの文章は反戦平和運動特有の「お涙頂戴型のプロパガンダ」なのでしょうか?

 

「憎き嫁の所為で私は最愛の孫を失う羽目になった、これだけの犠牲を強いられた以上は安倍は辞めろ!」

という反対派の主張も、

「憎き嫁は強引に孫を連れて行った、安保法案に反対する輩は子をダシにする碌でなし共だ!」

という賛成派の主張とも受け止められる様にも感じられるからです。

 

即ち、当該記事の捏造文章は法案への賛否両者が都合良く利用できる

レトリック的な本質が内在している様に思えてなりません。

 

安保法案が審議されているからといって

炎天下、国会前でデモをしなければならない義理はないし、

そこに幼児を連れてゆく義理はさらにないので

「これだけの犠牲を強いられた以上は安倍は辞めろ!」

という結論を引き出すのは

いささか無理があるでしょう。

総理としても、そこまでの責任は負えませんわな。

 

しかし、それは二次的な話。

GUYさんへのお返事はこうなります。

 

お涙頂戴型のプロパガンダであることと、

両義的な解釈(=賛否どちらにも取れる)が可能であることは矛盾しない。

 

たとえば、こんな「戦争の語り部トーク」を考えてみましょう。

 

女学校時代、一番仲の良かったA子さんが

戦争末期、勤労奉仕で軍需工場に連れて行かれ、

空襲で還らぬ人になってしまいました。

戦争はゆるせません。

私たちはいつも、平和がいいねと話していたのですが・・・

A子さんは息をひきとる直前、戦争が終わるまで生きたかったと何度も話していたそうです。

 

何やら、本当にありそうな感じですが

ここからは以下の2種類の結論が引き出せます。

 

1)戦争のせいで私は親友を失った。

だから二度とこんなことがないよう、恒久平和を祈願し、憲法九条を絶対に守らなければならない!

 

2)負け戦のせいで私は親友を失った。

だから 二度とこんなことがないよう、安全保障政策を整備し、十分な軍事力を保持しなければならない!

 

例によって両義的な解釈が可能ですが、

これは賛否両者が都合良く利用できるレトリック的な本質が内在しているためでしょうか?

 

・・・そこまで難しく考える必要はありません。

ただ感情に訴えることだけを考えて、論理性に何も気を配っていないからです。

いわば、非論理的であることの功罪。

 

お涙頂戴ではありませんが

似たような例として、

「安保法制は違憲だからダメだ!」という反対論が挙げられます。

 

これを唱える人の大多数は

憲法九条は絶対守るべしという信念を持っていると思われますが、

「安保法制は違憲だからダメだ!」という主張からは

「この程度の法案ですら違憲になってしまうのだから、憲法、とくに九条を変えねばダメだ!」

という結論だって引き出せるのですよ。

 

・・・こんなことを書くと、

空しさのあまりエコロジーに走る人が出てしまいそうですが、

あまりセンチメンタルになるのは考えもの、という話でした。

 

ではでは♬(^_^)♬