11月30日の記事

「国家主義と社会主義の両立」につづいて、

今日もNOAさんのコメントを取り上げたいと思います。

 

11月29日に寄せて下さったコメントに、

中野剛志さんのエジンバラ留学時代のエピソードが出てくるんですね。

いわく、

 

どの教官も、(中略)相対主義的な態度そのものを極端に嫌い、

学生たちを厳しく戒めていた。

ある温厚な教授が、

「だれそれの意見もいいと思うし、それと対立するだれそれの見解があってもいいと思う」

と発言した学生に対して、

突如、烈火の如く怒り、

「君の態度は、学問を冒涜するものだ。

そのような相対主義的な態度をとるのであれば、私のクラスから出て行きたまえ」

と強く叱責したこともあった。

 

この教授の怒りはもっともです。

相反する見解について、どちらも良いと言われた日には

まともな議論は成立しません。

 

しかし、問題の学生が

かりにこう言っていたらどうでしょうか。

 

Aの意見は、かくかくしかじかの前提の上に立っており、

この前提を受け入れるかぎり、正当な主張となる。

たいするBの意見は、かくかくしかじかの前提の上に立っており、

その前提を受け入れるかぎり、正当な主張となる。

 

これなら教授も怒らないと思うのですよ。

こちらの発言からは、以下の論点が引き出せるためです。

 

1)Aの意見の前提と、Bの意見の前提を比べたとき、より正しいのはどちらか?

2)二つの前提は、完全に相容れないものか。接点が生じる可能性はないか。

3)(接点が生じうる場合)対立しているかに見えるAとBの意見を折衷することは可能か。

できないのであれば、それはなぜか。

4)(接点が生じない場合)どちらかの意見のほうが正しいことになるものの、

これが逆転する可能性は想定しうるか。

しうるとすれば、逆転成立の条件は何か。

 

「この4点について、君の見解を明確にしたまえ」

と、うながしはするでしょうが

「私のクラスから出て行きたまえ」とはならないでしょう。

 

対立する二つの見解について、

どちらか一方だけが正しく、しかも優劣に変化は生じない

と決めてかかるより、

このほうが物事を包括的に理解できる可能性が高まるからです。

 

大まかに整理すれば、

1)対立する見解を、どちらも良いと見なす=無責任な相対主義

2)対立する見解について、どちらか一方が絶対に正しいと見なす=硬直したイデオロギー

3)対立する見解について、その対立のあり方を論理的に腑分けしようとする=柔軟なイデオロギー

となるでしょう。

 

ちなみにこれと関連して、

もうひとつ面白いエピソードがあるのですが、

そちらは明日、ご紹介します。

 

ところで。

文芸評論家の磯田光一さんは、

大江健三郎さんの作品を分析した結果

「父性の絶対者への潜在的な渇き」を見出しています。

 

これって、大江さんにはひそかな天皇崇拝願望があるということではないでしょうか?

より詳しくは「震災ゴジラ!」

「幽閉された日本国憲法」をご覧下さい。

 

ではでは♬(^_^)♬

 

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