保守、じゃなかった左翼の政治運動は

いつも決まって

これに失敗すれば何もかも御破算だ

という絶望的な身ぶりをともなっていました。

 

で、それらの運動は

ほぼ例外なしに失敗します。

 

ならば左翼は、絶望のかたまりになるはずでしょう。

ところがお立ち会い!

そうはならないのです。

 

運動が失敗してしばらくすると、

忘れたようにケロリとしている

というのが真相。

 

どうしてそんな器用な真似ができるのか?

福田さんはずばり指摘します。

 

一つ一つの抵抗運動において、

彼らは勝つことを目的としているのではなく、

進歩主義的(=左翼的)気分に守られながら

その気分を守り、

その気分にひたることそのこと(自体)が目的になっているのではないか。

 

もしそれが(=いちいち絶望してみせることが)戦術だとすれば、

敵をあざむくそれではなく、

みずからの無力を

みずからに正当化してみせるための戦術ではないのか。

(表記を一部変更。原文旧かな)

 

要するに絶望それ自体が

一種の「絶望ごっこ」に堕しているのですね。

つまりは自己欺瞞。

 

こんな状況じゃ、日本はもうダメだ!

あとは没落しかない!

最後の勝負に出なければ!

・・・といったかけ声は、

事実や論理に裏打ちされたものではないわけです。

 

これらのかけ声の本当の意味は

ここまで絶望し、

必死の気分になっているのだから

われわれは正しいはずだ

というもの。

 

だから失敗したって平気なんですよ。

自分たちの正しさが揺らいだことにはならないんですから。

 

しかしですな。

こういう態度を取りつづけると、どんなことになるか。

福田さんの言葉をどうぞ。

 

(左翼は何らかの運動に失敗するたび)

善意の同調者を失望させ、

彼らの絶望に反動政治も及ばぬ

濁った「戦術」の色をただよわせてきた。

 

が、彼らに向かってそれを言うのはヤボであろう。

むしろすべてを無に帰せしめたほうが、

かえってすべてを得る道だと、

彼らは考えているであろう。

 

すべてを無に帰せしめたほうが、かえってすべてを得る道だ。

 

去年あたり、保守派(の一部)で流行った

「戦後体制の解体」という主張を

ここから連想するのは容易ですね。

 

つまりはこういうこと。

自己正当化のための「絶望ごっこ」などすべからず!

絶望するなら、ちゃんとしろ!

 

かくして、「愛国のパラドックス」は続くのであります。

 

 

ではでは♬(^_^)♬