6月26日の記事
「憲法は〈勝ち取った〉もの?!」では
作家・井上ひさしさんの
「憲法は戦争で亡くなった人たちが命を懸けて勝ち取った言葉だ」
という発言を取り上げました。
要するに〈九条バンザイ〉的な方々の中には
日本は戦争には負けたが
九条を押しつけられることで逆転勝利を収めた
という
ある意味での潜在的な所のいわゆるそれ自体があって
これが一つの大きな見解となっているわけですが・・・
ここで興味深いのが、
井上作品を上演する劇団「こまつ座」が
まもなく上演する芝居「父と暮らせば」の内容。
映画にもなったので
ご存じの方もいるかも知れませんが、
ウィキペディアから抜粋しましょう。
昭和23年の広島。福吉美津江の自宅。
美津江は、父・竹造と二人で暮らしている。
竹造は原爆の直撃を受けて死亡したはずなのだが、幻となって美津江の前に現れたのである。
美津江は明るく快活だが、
心の奥では原爆投下を生き残ってしまったことへの罪悪感をもっており、
勤め先である図書館で原爆の資料を集める木下という青年から好意を寄せられているものの、
死者への申し訳なさから親密になれないでいる。
竹造は、美津江の日々の話し相手として、彼女を楽しませ、ときに諭し、助言を与える。
美津江は、木下から故郷の岩手に一緒に行こうと誘われたと竹造に告げる。
竹造は、それは結婚の申込みで、ぜひ行くべきだと言うが、
美津江はまたも逃げようとする。そして父と娘の最後の会話が始まる…。
ちなみに映画では「木下」が実際に登場しますが
舞台では美津江の台詞で語られるだけになっています。
それはともかく。
この筋立ては非常に興味深い。
なぜなら江藤淳さんは、
敗戦の現実にあらためて直面しないかぎり、日本人は自己回復を達成しない
と論じた際、
そのような自己回復を達成したとき、戦争の死者がいっせいに日本に帰ってくる
と述べたのです。
いわく。
死者たちはいっせいにこの国土に帰り、
もうそこから動こうとはしない。
そこには特攻隊の青年たちだけでなく、
脱走して野垂れ死にをした老兵もいる。
さらに広島・長崎の犠牲者だけではなく、
名もない田舎町で焼け死んだ人もまじっている。
江藤さんと井上さんでは
政治的立場は対極ではないかと思うのですが
この文章には明らかに「父と暮らせば」に通じるものがある。
これはなかなか重要なポイントです。
井上ひさしさんが
歴史的事実を露骨にねじ曲げてでも
憲法を〈 勝ち取ったもの〉と言わずにいられないのは
つまりは戦争の死者を排除したいからではないのか?
別の言い方をすれば
「憲法(九条)と暮らす」のでないかぎり
井上さんは劇中の美津江のように
死者から自由になれないと感じているのかも知れません。
その根底にあるのは、
むろん生き残ったことへの罪悪感であり
死者への申し訳なさでしょう。
事実、井上さんは
「戦争で亡くなった人は語れないが、代わりに語っているのが憲法」
とも発言しています。
その意味で父の亡霊と暮らす状態を終わらせるには
憲法(=戦後民主主義)と暮らすようにならなければならない。
美津江を父親から解放してくれる木下が
もとの舞台版では言葉でしかない(彼女の台詞にしか登場しないため)のは、
じつに象徴的と言わねばなりません。
いわゆる「九条崇拝」の非現実性を批判するのは簡単です。
しかしその根底に
九条でも崇拝しないかぎり、死者に申し訳なくて生きていけない
という切実な心情が(少なくとも出発点において)ひそんでいた可能性を無視するならば、
われわれもまた、自己回復を達成することはないでしょう。
そして「愛国のパラドックス」で論じたように
日本を取り戻すのは、簡単でもなければキレイゴトでもないのです。
ではでは♬(^_^)♬
14 comments
カインズ says:
6月 29, 2015
死者に申し訳ないから、その原因を作ったアメリカに押しつけられた憲法(特に九条)を崇拝するというのが、どうにも理解に苦しみます。これだと、自分の家族が殺されたにも関わらず、その犯人が残した凶器をお守りにしているようなものだと思うのですが……
アメリカ=真の日本であり、憲法の押しつけ=ありがたい教導、原爆による被害=日本が真の日本になるための仕方が無い犠牲と考えたとしても、ここまで極端になるものなのでしょうか?そもそも、真の日本であるアメリカが戦争を放棄していないのに。
マゼラン星人二代目 says:
6月 29, 2015
>自分の家族が殺されたにも関わらず、その犯人が残した凶器をお守りにしている
クリスチャンは十字架を信仰のシンボルとしてますが、何か。
カインズ says:
6月 30, 2015
なるほど、となると憲法九条の信奉者は正に日本国憲法を聖典と捉えているのかもしれませんね。ただ、この聖典、ほんの少し前までは鬼畜と呼んでいた者によって作られたのですが……。そのような者が作った憲法でも、聖典と言っていいのでしょうか。
fujio says:
6月 29, 2015
憲法九条を崇拝する人たちって
憲法を誰が作ったとか誰からもらったとか
気にしてないのではないでしょうか。
というか気にしようと意識を向ける必要を感じてないのではないでしょうか。
興味があるのは戦争が究極の悪だということ。死者は戦争に殺された…ということなんでしょうかね。
カインズ says:
6月 30, 2015
経緯がどうであれ、憲法九条は素晴らしいものであるということになるのでしょうかね。ただ、憲法とは死者が勝ち取ったものなのだとするならば、そのせいで日本の存立が危うくなる内容なんて望まないのではないかと思うのですけれどね。
もちろん、戦争はなるだけ避けるべきですし、死者を悼む心は十分に分かります。しかし、感傷的な議論に流されて、戦力均衡による平和を考えたりといった実際的な議論があまりなされていないように思います。
やまねろん says:
6月 30, 2015
虐待されている子が、その加害者である親を好んで庇い続けることはありますし、また別の例ではストックホルム症候群が有名ですよね。
どこに執着して、何で自身の存在を確かめようとし、またどのような筋書きで自己正当化を図るのかは、それぞれが持ち合わせている性質によるかと思います。
大雑把に考えると、アメリカは他を責めることで自己正当化を図り、明治以後の日本は過去の自身を否定することで正当化を図る精神性ではないですかね。
jirou says:
6月 29, 2015
靖国神社にて戦没者の方々を祀るのが慰霊、鎮魂であるのと同様に、憲法9条を守る事が、
サヨクの方々の無意識としての慰霊、鎮魂になっている事と考えられる訳ですね。
そう捉えた時に、日本の昔からある怨霊信仰の事が頭に浮かびました。非業、理不尽な死を遂げた人が怨霊となり、祟るという考えなのですが、先の大戦での戦没者の方々は、ある条件を満たさなければ怨霊になってしまうと密かに私達日本国民が恐れているとは考えられませんか?ある条件とは慰霊、鎮魂の事なのですが
そう考えると憲法9条を変えたくても、ずっと変えられなく来た理由の一つとして納得いきませんか?
九条好実 says:
6月 29, 2015
憲法降臨♪
英霊の御霊は憲法9条という
言霊となって 燦然と輝く。。。
磯城島の(しきしまの) 大和の国は
言霊の助くる国ぞ ま幸くありこそ
万葉の昔から
日本精神は不変でございます ね。
akkatomo says:
6月 29, 2015
つまり、今現在の日本は弔われぬ死者によって祟られているに等しいのではないでしょうか
jirou says:
6月 30, 2015
国家の繁栄の翳りが決定的になった時、それとサヨクの方々の言う憲法9条改悪?がもし行われたとすると
あなたのおっしゃる事が表面化してくると私は思います。
MACMILLAN says:
6月 29, 2015
パラドキシカルでも全く問題ありません
戦後日本人の基本姿勢は未来志向です
過去はどうでもよいのです
S.D says:
6月 30, 2015
失礼します。
毎日更新を楽しみにしており、今日のブログも大変興味深く拝読いたしました。
一つ不躾なお願いを許していただけるでしょうか。江藤先生の文章の引用箇所を前後も含めて読んでみたいのですが、なんという本が出典であるか、教えていただけませんか。
よろしくお願いいたします。
SATOKENJI says:
6月 30, 2015
「『ごっこ』の世界が終わったとき」という評論です。
「江藤淳コレクション1 史論」(ちくま学芸文庫)に収録されています。
「表現者」61号でも中島岳志さんが論じていました。
S.D says:
6月 30, 2015
ご返答、ありがとうございました。
何か致命的なイメージを喚起する文章だったので気になり、失礼ながら質問してしまいました。
早速参照してみようと思います。
ありがとうございました。