昨日の話の続きです。

佐藤幸治・京大名誉教授

よくぞ、こうおっしゃったもの。

(憲法改正にあたっても)本体、根幹を安易に揺るがすことはしないという賢慮が大切。

 

というのもですな、

福田恆存さんの「当用憲法論」をご覧になれば分かりますが

これはもともと改憲派、

それどころか現憲法無効論者のロジックなのです!!

なぜか。

 

日本国憲法は

1)大日本帝国憲法の改正という形を取りつつ、

2)「改正」では許されないはずの〈憲法の本体、根幹の変更〉をやっているからです。

 

護憲派にとって頭が痛いのは、

この二点の両立を図らねばならないこと。

 

彼らにとって日本国憲法は

大日本帝国憲法とはガラッと内容が違うからこそ価値があるのですが、

憲法改正でそこまで変えてよいということになると

所定の手続きさえ踏んでいるかぎり、

(たとえば)一党独裁を容認する形に日本国憲法を変えても構わないという話になる。

 

・・・まずい!!

 

ならば日本国憲法は、

大日本帝国憲法を廃止して新たにつくられたものであり、

要するに「革命憲法」であると主張すればよいのか。

 

これもまずいんですね。

 

この憲法が制定されたのは占領下。

法的にも革命憲法だという話になったら、

占領軍に押しつけられたことがバレバレになってしまう。

そんな憲法は独立回復の瞬間に効力を失うはずだ、なんて結論にもなりかねません。

 

だからこそ形式上は、

大日本帝国憲法の改正条項(73条)に基づいたことにしたのでしょう。

そうやって旧憲法との連続性をつくっておかないと

正当性が揺らいでしまうわけです。

 

ところが旧憲法との連続性があることにしてしまうと

今度は内容面での正当性がヤバくならざるをえない。

 

憲法の墓穴、ここにあり!!

 

つまり日本国憲法は、

〈形式上は改正だが、実質的には革命だった〉

という詭弁を使わないことには正当性が保証されない代物なのです。

 

ですから、いやしくも護憲派であれば

(憲法改正にあたっても)本体、根幹を安易に揺るがすことはしないという賢慮が大切

などという発言は

禁句として慎むのが賢慮のはずなのですが、

佐藤教授、断言されてしまいました。

 

なぜ、やってはいけないことをしてしまうのか?

なぜ、手に入れられないものを愛してしまうのか?

なぜ、絶対にやってはいけないことに限ってやりたくなるのか?

いやそもそも、「やってはいけない」という言葉は本当のところ何を意味するのか?

 

ルー・リードの警句が

イデオロギーによらず当てはまってしまうのが

今の日本のヤバいところです。

 

国家規模のパラドックスが、限界というか臨界点に来ているのですよ。

この解消に努めないかぎり、新たな展望など拓けるはずはない。

あらためて、そう申し上げておきましょう。

 

 

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ではでは♬(^_^)♬