水曜日です。
「新日本経済新聞」、私の記事の配信日。
いつも通り、9:00ぐらいからご覧になれるでしょう。
今週のテーマは「〈9条の会〉と安倍政権」。
本ブログでも墓穴リレーとして取り上げた
東大和9条の会のポスターと、
安保法制をめぐる参考人推薦問題を
ワンセットで取り上げます。
ちなみに9条の会ポスターですが、
何度も取り上げたのは〈夏バージョン〉と呼ばれるもの。
その前に、こういう〈冬バージョン〉があったそうです。
これまでの記事では
くだんの〈想像〉の中に
自分が殺されることが含まれていないのを
話題にしてきたのですが。
新日本経済新聞では
別の角度から取り上げます。
ポスターのポエムには
もしも明日
この国が戦争を受け入れて
とありますが、
戦争を「受け入れる」とは、具体的にどういうことなのか?
これは「戦争を始める」とは違います。
何かを始めるのは能動的な行為。
他方、「受け入れる」は文字通り受動、つまり受け身の行為です。
受け身で攻撃することはできません。
しかもポエムはこう続く。
あなたがその手で
誰かを殺すのを
あなたの父や母や兄弟や
友だちや恋人が
誰かに殺されるのを
このシチュエーション、
どう考えても、日本がどこかに攻めてゆくというものではありませんね。
他国から攻め込まれるという、いわゆる「本土決戦」状態です。
・・・しかしですな。
他国から攻め込まれたら最後、
9条があろうとなかろうと
戦争を「受け入れる」しかないんじゃないでしょうか?
でなければ屈服するしかありませんが
そうしたところで人道的に扱われる保証など存在しないことは
歴史の幾多の事例が証明するとおり。
と、いうことは。
東大和9条の会の真のメッセージは
9条など何の役にも立たない代物だ
ではないでしょうか?!
だから墓穴リレーだと言うのですよ!!
やはりこれは、解毒剤が必要なようです。
ではでは♬(^_^)♬
11 comments
遠藤 says:
6月 10, 2015
墓穴リレーと憲法9条・・・。
この組み合わせは、バケツリレーで有名なメタリカのあの曲を想起させます。
アルバム「…And Justice for All」の「Blackened」。
アルバムタイトルからして憲法9条っぽい。
空耳で有名な歌い出しの部分「墓穴リレー、水よこせ~」
元の歌詞は
“Blackened is the end. Winter it will send.”
おお、まるで憲法9条が失われた世界を現しているかのようではありませんか。
墓穴リレーは27年前のアルバムに歌われていた。
アメリカに追随する日本を象徴しているかのようで、感慨深いものがあります。
九条好実 says:
6月 10, 2015
文言はさておき、、
ぼくは <秋バージョン>が好みです
が、、、
モデルさんのダサイ(失礼)帽子はイケマセン
(髪が汚れるのを彼女が嫌ったのかしら?)
ポスターは見た目が全て。
さて文言
想像していただくには文章長過ぎ。。。
それに憲法なんて書いてたらマニアしか
振り向きませんって。
SATOKENJI says:
6月 10, 2015
コメントを一部編集させていただきました。ご了承下さい。
九条好実 says:
6月 11, 2015
コメント欄を汚さずにすみ
ホッとしております。
高配に感謝いたします♡
九条好実 says:
6月 10, 2015
失礼
<秋バージョン>ではなく
<冬バージョン>でしたね
お赦しあれ
盗人蜘蛛 says:
6月 10, 2015
>自分が殺されることが含まれていない
結局9条の会にとって、戦争は他人事なのでしょうが、
この文言を入れると宣伝の効果が弱くなると考えているのでは?
自分が殺されると云う重要な視点、これを加味すると自分勝手な奴だと思われ、
9条の会の宣伝(布教)が成り立たなくなる。
これも佐藤さんの大好きなパラドックスかもしれませんね。
SATOKENJI says:
6月 10, 2015
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、
私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである」
マタイ福音書10章の言葉です。
ただしこの場合、戦争はむしろ正当化される気が・・・
盗人蜘蛛 says:
6月 25, 2015
「自分だけは死にたくない」という個人の利己を美化すると
「戦争」という国家の利己も美化することに繋がるのでしょうか…
9条を核兵器に換えても成り立ってしまうことも含めて、
プロパガンダは実に奇々怪々です。
フルート says:
6月 11, 2015
(混乱していたり抜けてしまっていたりでまた失敗しちゃう可能性も高いのですが…どうしても書かせて下さい・・!)
2種類のポスターが制作されて来たこの順番について思った事があるのです。2種類のポスターは、冬→夏の順で作られていたんですよね?最初に作られていた冬バージョンのポスターの雰囲気は、枯れ木と一面の落ち葉、そして目を閉じて横たわる女の子・・・なのですから、これは明らかに、私には<負けの場景>になってしまっている様に感じられます。(モデルの方には少し悪いのですが…見方によっては死んでしまっている光景にも見えてきました..)ここから既に、もう私の強引な推理(もう投影?)になってしまっているのかもしれないのですが・・この冬バージョンの写真が撮られ、例の文章も添えられて、最初のポスターが制作されていた時には、実はポスターの制作者たちの頭の中に、自分たちが自然と一体化したかの様にして一度死ぬイメージがあったのかもしれないとさえ思えてきました・・(反戦思想とエコロジスト等との関係性は強いですし、それはただの欺瞞・またただのポーズの場合も多いとは思うのですが、人間の命より自然の命を上位に据えてしまう事で、自分たちは普遍性と一体化したのだとする様な主張も存在していますし、これらを意識された可能性は、あるのかなと・・・)。ポスターの好評を受け、(私の個人的な感想ではどちらもちょっと趣味は悪いと思うのですけど…。)次いで制作された夏バージョンでは一転、女の子は両足で立ち、草木も元気に(?)、そして例の文章は、そのまま使い回された結果、憲法九条を保持する自分たちの倫理的・道義的超越性(飽く迄これは客観的事実ではなくて、九条の会視点だとおそらくこうなのかなというものです)が、今度は冬の時よりも変なかたちで自信有り気に、あざやかに(?)謳われた・・。と、そういう経緯もあり得たのかもしれないなと..。
日本国憲法が公布された当時、いくら主権は国民にあるのだと謳ってみても、戦争は国と国とで戦われた以上、その「平和」の成立に国連の存在が前提されていた事は間違いない筈と私は思うのですが、達成されてない個人の主権(?)(例えば・・身を守る決意や努力もなしに平和が保たれ得ると考えたり、「デフレは貨幣現象」であり、金融緩和でコントロールできると考えたり等、不当な評価を保持した気になって、最良の状態には達しないままの自分たちでも居続けられてしまった権利?)を、国家(や歴史)の主権よりも上級なものとして過剰に礼賛し続けて来てしまった結果、例えばもう九条の会の人たちにとっては、憲法九条が自分たちの身の安全を保障するものでは無いのかもしれないと半ば気付き始めて来ても、もう自分たちが本当に守りたいと思っているそれは、もはや<九条そのもの>ではなく、<九条は自分たちの身の安全の役には立たないものなのかもしれないが、そんなものをも大事にできる自分たちこそ、九条より尊い>という自己肯定の為の自己認識へとどんどん変形させられてしまえるものなのかもしれない・・とも思えてきました・・。長文になってしまいすみません。。
フルート says:
6月 11, 2015
修正と捕捉をさせて下さい。。すみません。。
×ポスターの好評を受け、
〇そしてポスターの好評を受け、
×そして例の文章は、
〇また例の文章は、
でした・・。
一番伝えたかった事は、すこし冷たく言ってしまうと・・、ポスターを制作した人たちは、ただ一種の<死んだふり>をしただけなんじゃないかなと。。公園の中で・・。(もし目を閉じずに開けて、空を見上げていたのだったら、また少し意味合いも違ってきたかもしれません。)2種類のポスターから私が一番感じたのは、結局のところ、九条の会の人たちの自然というより人間に対する甘え(?)でした。(言い方がすこし厳し過ぎるかもしれませんけれど・・。)でももう少しよく考えてみようとも思いました。。
KATO says:
6月 11, 2015
私もフル-トさん同様に色々と思考が混濁して来て居ます。(フル-トさんのは混乱してると自分で言われる程混乱はしていないとお見受けしますが。)
このフレ-ズと理念をそのまんまするっと受け入れられる人から見れば、佐藤さんの分析は非常に斜め過ぎるそうです。そして、この文章の欠陥は「戦争を受け入れる」を戦争をする事を受け入れる」と修正する事でクリアされるそうです。(つまりは「戦争をする事を受け入れる」とすれば、佐藤さんの分析とコメントで指摘されてる疑問は解消される?)受け身である事に変わりはないし。どうなんでしょうね。今回の問題提起は論議を喚起させそうですね。イヤさせたい!!