昨日(8月17日)発売の

「表現者」62号(2015年9月号)

評論「天使の狂気か、人間の正気か」が掲載されました。

 

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61号に掲載された

「汝の右手がなすことを」では

大岡昇平さんの傑作小説「野火」を論じましたが、

今回は塚本晋也監督による映画版「野火」を取り上げます。

 

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 ⓒSHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

 

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 ⓒSHINYA TSUKAMOTO/KAIJYU THEATER

 

映画版「野火」は、

基本的に原作にかなり忠実。

観ていて、「今は原作の○○ページあたりに来ているな」と思い出せるくらいです。

 

ただし。

 

映画はある重要な場面で、原作から逸脱します。

これによって、

その後の展開が持つニュアンスがかなり変わってくる。

 

実際、映画版「野火」の結末は

原作を踏まえつつも

原作とは似て非なるものになっていると言っても過言ではありません。

 

悪いと言ってるのではありませんよ。

それどころか、一般的に言って

すぐれた原作であれば あるほど

映画化の際には脚色の必要が出てくる。

 

小説と映画ではメディアが違うのですから

小説としてすぐれているものを

映画としてすぐれているものに移し替えるには

なぞるだけではダメ、という話です。

 

ただし。

 

このような脚色の結果、

映画「野火」の提示するメッセージが

原作とはだいぶ違っていることも事実。

 

私なりに要約すれば

原作が「天使の狂気」に達しているのにたいし、

映画はそれを拒み、「人間の正気」にとどまろうとするのです。

 

この二つはどう違うのか?

どちらが望ましいのか?

これは非常に興味深いテーマです。

 

その意味で「野火」の世界は

原作と映画の両方を比べることにより

いっそう広がると言えるでしょう。

塚本監督、立派な仕事をされたわけです。

 

天使の狂気か、人間の正気か。

ぜひご覧ください。

 

ではでは♬(^_^)♬

 

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