12月8日の記事
「すずさん、何がそんなに悲しいの?」
に関連して、こんなコメントがありました。
それにしても、真珠湾攻撃75周年の今日に
この記事というのは少しばかり運命的ですね(苦笑)
しかるに面白いのは
どこらへんが運命的なのかを考えてみること。
「この世界の片隅に」は
太平洋戦争の時代を舞台にしてはいますが
いわゆる戦争ものとは違います。
実際、原作者・こうの史代さんは
原作本の後編、つまり下巻(※)のあとがきでこう述べています。
(※)現在、「この世界の片隅に」は
上中下3巻で発売されていますが、
私は2011年に刊行された版を持っていまして
そちらは前後編の2巻なのです。
この作品では、戦時の生活がだらだら続く様子を描く事にしました。
じつはこの「だらだら」感こそ、
原作の大きな魅力であり、
映画版が(テンポの速さもあって)うまく再現できなかった点。
要するにこうのさん、
戦争の時代は
戦争が日常なのだから
特別なことがないかぎり、戦争は意識されなくなる。
そして日常生活は、時代を問わずだらだらしたものである。
という真理をきっちり表現したのですよ。
だから、いわゆる「戦争もの」ではないわけです。
ならば、どこが運命的なのか?
私が考えるに、
自己陶酔、ないし客観性の欠如が
映画版に見られたことではないか。
つまりですな、
太平洋/大東亜戦争にだって大義はあったわけですよ。
自存自衛+アジアの解放です。
とくに後者は、なかなか立派な理想と言える。
しかし、いかなる大義も
客観的にとらえて追求しないかぎり、実現するはずはない。
そしてここで、わが国は無残にコケます。
自己陶酔が過ぎたのです。
自己陶酔の戦争が始まった日に
その戦争の時代を舞台にした映画に見られる
自己陶酔を指摘する。
σ(^^) なるほど、これは運命的だ!(^_^)b
・・・しかるに毎年、この時期になると
あの戦争について何か言いたくなるのが
みなさんご存じ、チャンネル桜。
というわけで、本日20:00〜23:00の
「闘論! 倒論! 討論!」に出ます。
ちなみにテーマは
国のために死ぬこと〜再考 大東亜戦争。
じつにチャンネル桜らしいテーマ選択ですが
みなさん、ここにも自己陶酔を感じませんか?
「国のために死ぬ」というフレーズには
より大きなもののために自分を犠牲にする点で
潔く美しいイメージがあります。
そんなことはない! 国家のために死ぬなんて悲惨なだけだ!!
・・・と言いたがる方もいるかも知れませんが、
私の知るかぎり、そういう方ほど
憲法九条のためだったら
潔く美しい自己犠牲の覚悟ができているようにお見受けしますので
取り合わないことにいたします。
その覚悟ができていないのであれば
九条が改正されようが
憲法から削除されようが
結局は受け入れて流されるという話になるでしょうしね。
だとしても。
祖国が命運を賭けた総力戦を遂行しているとき
国民がすべきことは何か。
本当に「死ぬ」ことか?
違うでしょうに。
まずもってすべきは「勝つ」ことです。
事実、米陸軍では新兵訓練の際、
死ぬことで国の役に立った兵士などいない!
と教えます。
兵士たるもの、
勝つまで生き延びることで国の役に立つのだ、と。
海兵隊になるともっとスゴくて
海兵隊員は政府の所有物だ、許可なくして死ぬ自由はない!
と教えるのですぞ。
そしてここには深い真理がある。
大変な戦いであればあるほど
「死ぬ」ほうが「勝つ」よりラク。
ついでに仲間がどんどん死んだら
自分だけ助かるのは申し訳ないという気になるでしょう。
とはいえ兵士がいくら死んでも、
国が負けたら意味がない!!
だからこそ、死の自己目的化を阻止する必要があるのです。
むろん戦争ですから、
祖国の勝利のためには自分が死なねばならない状況はあるでしょう。
そのときには
「国のために死ぬ」ことが意味を持ってくる。
しかしそれは
「国のために勝つ」ことをとことんやり尽くしてからでなければならない。
そして先の戦争、とくに負けがこんできた末期において
わが国に「死の自己目的化」の風潮があったのは否定しがたい。
潔く散ると言えば聞こえはいいものの、
これはひとつ間違えると、
死ねば負けてもいいということになってしまいます。
すなわち一種の責任回避。
ところが70年たって、
その戦争を振り返ろうとするときまで
いきなり「国のために死ぬ」と来てしまう。
死ねばいいってもんじゃない!
戦争は勝たなきゃダメなんだ!!
こういうリアリズムを持たないまま
自己陶酔にひたってしまう傾向が
今なお見られるわけです。
国のために死ぬと言うまえに
国のために勝つことを、もっとシビアに考えるべきではないか?
そんな発想で収録に臨みました。
あとは見てのお楽しみです。
ちなみに二時間目では
西部先生と水島社長が、
かなり白熱したバトルを展開したりもしますよ・・・
ではでは♬(^_^)♬
21 comments
shun says:
12月 10, 2016
「闘論!倒論!討論!」って大概2時間目が面白いですよね。
何でですかね?
皆さんエンジンかかってくるんですかね(笑)
西部先生と水島社長のバトルw
面白そうですね!見ます!
ホワホ says:
12月 10, 2016
GIGOの思想版ですね
実際仔細に検討したらどうなるんでしょうかね?
まぁ原則後ろ向き研究ですから皆して正しい証拠を探し
涎を垂らし合う結果に終わりそうですけど
YUU says:
12月 10, 2016
> 「国のために勝つ」ことをとことんやり尽くしてからでなければならない。
これは本当にそうですね。しかしながら、今日の日本には命を懸けて「とことんやり尽くす」だけの正義は見当たらないようです。
私が思うに日本の左翼や保守派が欧米的な価値観(自由とか民主主義等々)に依存して正義を言うのもそのことと関係しているように思います。
それから、水島氏は日本単独の話になると、「属国」等々否定的な発言をするのに、アジア(この言葉に日本が含まれているのかは分かりません)についての話になると、威風堂々となりますよね。今回の「闘論!倒論!討論!」でもそれがでそうな感じがするw
アメリカが「勝つ」ことに拘るのは現実主義的ではありますが、一方で「自分たちが負ければ異民族に征服されてしまう」と言う恐怖心があるのも事実かと思います。
なにせ、アメリカは白人たちが他の異民族を征伐してきた事実がありますからね。
彼らの危機感はハンパじゃないと思います。
SATOKENJI says:
12月 10, 2016
このテーマも出てきます。
「たとえ負けても国のために死ぬんだ」と決意できるかどうかは
国の側にそれだけのものがあるかどうかにもかかっている
という形で・・・
GUY FAWKES says:
12月 10, 2016
単刀直入な感慨ですが、今回の討論テーマである「国のために死ぬこと-再考 大東亜戦争」とは
今年7月に討論出演者のお一人である海上自衛隊特別警備隊初代小隊長である伊藤祐靖さんが文春新書から上梓された
『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』が突きつけたものを再び思い起こさせる様でした
「死ねばいいってもんじゃない!戦争は勝たなきゃダメなんだ!!
こういうリアリズムを持たないまま自己陶酔にひたってしまう傾向が今なお見られるわけです。
国のために死ぬと言うまえに国のために勝つことを、もっとシビアに考えるべきではないか?」
特にこの部分は上に紹介した著書に記されたことと本質を全く同じくする内容があったのは驚嘆するばかりです…
差し出がましい様で申し訳ありませんが、もしかして拝読されましたか?
SATOKENJI says:
12月 10, 2016
これからです。
tinman says:
12月 10, 2016
死ぬ自由について、「若者には貧しくなる自由がある」が想起されました。
経済も戦争の一形態であるとするならば・・・
SATOKENJI says:
12月 10, 2016
これを死ん自由主義と申します。
tinman says:
12月 12, 2016
お見事です。
戦争が経済の一形態であるとする向きもありますが、それはさておき。
討論ではマッカーサーとプラトンの言葉が印象的でした。
戦争と経済がほとんど同義語であるとするならば・・・
一方で、軍人の平和と文民の平和は混同されてきたように思われます。
TOMAS says:
12月 10, 2016
ここまで可笑しな時代を70年過ごしてきて、勝つとか負けるとか既にそういう次元の議論ではない気がしますね。佐藤さん的には難しいかもしれませんが、総体としての日本人は所詮こんなものだったということで、一件落着にはなりませんか?勿論、国のための勝利への執念は燭光のように一瞬煌めくかもしれません(過去、私はリアリストの佐藤さんでも恐らく陶酔するような事を成し遂げました笑)。時が経てば、いずれ皆死にますよ、愚者も凡人も聖者も。
討論久し振りに拝見させていただきます。私のこのような意見が変わる事を信じて。
SATOKENJI says:
12月 10, 2016
あんがい、それに近い結論が出るかも知れませんよ・・・
TOMAS says:
12月 11, 2016
近代の味を知った日本人は滅びるべきか、残すべきか。
そんなナイーブな問題を次、是非チャンネル桜討論で聞いてみたいですね。時代に先んじた英断によっては、もしかしたら世界平和をラディカルに実現できるかもしれません。今回の討論は早送りして見たものの、正直疲れました:-(。よって感想なし。
ゴマメ says:
12月 11, 2016
そもそもの話、あの戦争は本当に実在したんですかねえ?
ツジツマの合わないことだらけ、角度的にありない写真など変なのもいろいろあります。
集合無意識の作り出した壮大な妄想って気がします。
たとえば、東京大空襲の痕跡なんてあったもんじゃないです。
年代的に(もしあの空襲が実在したなら)体験者はまだけっこう存命のはずですが、まるでお目にかかれません。
かつて人類は「地球は平らだ」と信じておりましたが、我々もおかしなことを妄信してるかもしれません。
せい says:
12月 12, 2016
海兵隊員は許可なく死ぬ事を許されない! byハートマン軍曹
ハートマン役を演じたのは本物の軍人なので、凄い迫力と説得力でした。
日本のように建前で追い詰めるのでなく、勝つ為に皆で頑張ろうぜ!って感じが個人主義的です。
最初から国の為に死ねるか?と言って、徴兵制を連想させるような、むやみに脅しつける言説はやめた方がいいと思いますね。
人をやる気にさせるには、やはり金、実利ですよ。精神論は後付けの理由で、自分を納得させる為にする言い分けにすぎません。
そこの所が保守派にもブラック企業に通じる何かを感じます。神風で散った若者も負けず嫌いな普通の若者達だと思いますよ。
なので、日本が軍隊持つのは外圧から富を守る為。止むを得ず戦争する場合は、もちろん国民を守る為。で良いと思います。
豊かになる為の第一歩ですよ。
この世界の片隅に。全く関心がないのでよく知りませんが、戦争ものなのに日常系で新しいと聞き、てっきり「日常」
というアニメのように戦争そっちのけでギャグやったりするのかな、とも思いましたが、死人が出るとの事で
やはり「何か」にまだ囚われているな、と思いました。小林よしのり氏が確か戦争論で、戦争体験者に話を聞いた際に
「俺はずっと危険な目にも会わず、飯食うだけの楽しい日々だったけど、戦後はそういう話がしにくいので黙っていた。」
という話を思い出しました。
ベッラ says:
12月 13, 2016
佐藤先生、ご意見心強く読ませて頂きました。
私は「死ぬことは・・・」とか「国の為に死ねるか」などという言葉はヴァーグナーの楽劇の「陶酔」を感じてしまって抵抗感があったのです。ヴァーグナーは楽劇の「美学」的な陶酔でありヴァーグナー自身はそういうことからほど遠い生き方をした作曲家兼リブレット(脚本)作家マルチ人間です。
「タンホイザー」がローマへの巡礼で命をかけるか、または異教の美しい女神ヴィーナスの魅力にはまるか。
こういうのは面白いのですが。
私はある保守政治家?が偉そうに「死」を美化し押し付けるようなことを得意げに書くのを信用はしておりません。むしろそのずうずうしいほどの面の皮の厚さに嫌悪感を感じます。その人はチャンネル桜には出ませんが。わが父はレイテに出征したのですが父が父母に書いた葉書には「再び還る日」とありました。
そして生還し、やがて結婚して私が生まれたのでして、娘とすれば父を正直で勇気があると思うのです。
それでも「いいヤツばかりが死んだ・・・」と言っておりました。その胸中を今になって痛いほど感じます。私はこの討論を自分のブログに動画だけあげてまだゆっくり見ていなかったのですが、佐藤先生の文を読んで改めて「討論」をUPしたいと思います。
その時は佐藤先生の文を転載させて頂きたく、また書けたときは必ずコメント欄でリンクなどお知らせします。
転載させていただきたいところは「ちなみに」から最後までです。
「討論」はじめからゆっくり見たいと思います。安倍さんのプーチンとのことも気になりますし、自民党の全体主義も恐ろしい。
SATOKENJI says:
12月 13, 2016
転載を許可します。
ワーグナーは、フランツ・リストとの関係も面白いですね。
なにせ義理の父子ですし・・・
ベッラ says:
12月 15, 2016
佐藤先生、ありがとうございました。今までかかって書きました。
http://blog.goo.ne.jp/bellavoce3594/e/679266e9adbdcde1ef621c6157483554
SATOKENJI says:
12月 15, 2016
拝見しました。
私の名前が何度か「佐藤健司」と誤記されていますので、早めに修正しておいて下さい。
ベッラ says:
12月 15, 2016
お名前の字のミス、うっかりして失礼してしまいました。
先生が気が付かないうちに、と急いで直したのですが・・・ああ、遅かった・・・。
誠に申し訳なく平謝りです。申し訳ございませんでした。
私の不注意で先生のお名前の字を間違うなんて、あってはならないことです。
どうかお許しください。
SATOKENJI says:
12月 15, 2016
まあ、変換ミスとしてはありがちなものですので(苦笑)
玉田泰 says:
12月 19, 2016
「闘論!倒論!討論!」拝見しました。西部先生と水島社長のバトルは西洋的価値観(近代・日本人の憧れ)対 日本的価値観(古来・日本人の自己陶酔)の論争(そのままあの戦争の価値観の対立に当てはまるのでは?)で、それを先生がリアリズム(現代・日本人のあるべき姿)でバッサリ切った感があります。
ナイーブな戦争(ただ負けるより悲劇的・戦後日本に繋がらない)との見解は、先生が常日頃展開されている論の根本的な認識なのかなとも思いました。
「計画的侵略の方がまし」と考えるのがリアリズムですよね。