句読点とは、
文を読む際の呼吸の区切りを示すものであり、
われわれの「精神の肺活量」ともいうべきものと
深い関係がある。
これが昨日までの話です。
精神の肺活量とは、
要するに「一息でどれだけの言葉を取り込めるか」
ということ。
文章を書く側にすれば、
「一息でどれだけの言葉を吐き出せるか」
ということでもあります。
ちなみにテンションの落ちてきた物書きは、
たいがい読点(、)の量が増えてくる。
つまりは息切れしているのです。
さて、以上の点を踏まえて、
「日本を、取り戻す。」
を眺めてみましょう。
KAZUさんによれば、
「、」と「。」が引っかかる、
バカにされているような気がする。
とのこと。
この言語感覚、私に言わせれば非常に健全です。
まずは読点。
どうして、ここになければいけないのか?
「日本を取り戻す。」
で何が悪い。
この文は、文字数にして7文字、
音数でも9音しかありません。
一息で言えて当たり前。
どうして、4音目「を」の後で息を継がねばならないのか。
別の政党が、かつて掲げたスローガン
「日本を、あきらめない。」
なら、まだ分かるのです。
「日本をあきらめない。」
だと、ひらがなが続いて読みづらい。
視覚的な区切りとして、読点があったほうが良い。
しかし「日本を、取り戻す。」の「、」を
この点から正当化することは不可能。
つまりこのスローガンは、
読む側の精神的な肺活量がきわめて低い
ことを想定しているのです。
どうせ読点でも打っておかないことには、息切れするに決まっている。
そんな発想がうかがわれるんですね。
いや、自覚はないでしょうが。
あるいは某政党のみなさんのほうが
これくらい読点を多くしておかないと息切れする程度の
精神的肺活量しか持っていない、
そういうことなのでしょうか?
それはそれで、国民をバカにした話ですな。
句点「。」については明日やります。
ではでは♬(^_^)♬
2 comments
しらす says:
8月 4, 2014
わたしはあの
日本を、取り戻す。
は前文があってのあのクドい句読点になっているんだと思っておりました。
例えば
反米政権から米国主導の新自由主義路線へ
日本を、取り戻す。
国民に向かって呼びかけてるんでもなく、同胞として共に目指すべき目標を掲げているわけでもなく、
すみません。何かちょっとだけ、トラストミーだったり妙にとっちらかってしまいましたけど、戦後レジームというあるべき姿に日本をそれこそ、おさめ直しますのでご安心くださいと、重大な決意をつぶやく。
そのためのブレス。緊張しながらの決意表明。、はその間に大きく深呼吸でもしたんでしょうかね。
今まで日本の保守は日米がうまく行く事が日本にとって唯一絶対の道であると述べてきたんですし、
その米国への決意は結果日本全体にとって良いことなのだから、と信じられている世界ではああいう独り言のようなつぶやきが標語として表に出てきてしまう。
あの句読点は言ってる本人にとってだけ必要なブレスだからこそ、空々しい。本来独り言は公になる事なんてないですから。
ずっとそういう風に見ていました。
kazu says:
8月 4, 2014
おはようございます。
なるほど!まさに霧が晴れるように理解できました。
上から目線で噛んで含めるように「取り戻すのはね、日本なんだよ、ぼうや」といわれていたんですね。そりゃ馬鹿にされたように感じますわね(笑)
このポスターの当時、自民党は谷垣総裁のもと、衆議院銀選挙を戦っていましたよね。
『当時の』公約には私からみて真っ当なことが書かれていると思っておりました。
私はとある金融機関で働いていましたが、1997年ごろの金融危機以降、自民党(及び今も民間議員として大活躍の御仁)が「とにかく銀行が悪い。不良債権隠しだ!全て処理だ!」と言っていることがどうにも納得できず、併せて「とにかく改革」とやっているのも支持できませんでした。
それから小泉時代の嵐が吹き荒れ、民主党政権になっても改革の嵐は収まらず。
『当時の』公約を見た時は、やっとトンネルから出られるのかな、と思ったものです。
しかし、このポスターへの違和感、それにそもそも嵐が吹き始めたのは自民党政権時代からじゃないか、ということもあって、自民党支持票を投じる前にこの点をハッキリさせたいと考え、自民党宛に小泉時代の反省を明確に表現して有権者に伝えるべきでは、という趣旨のメールを送らせていただきました。
しかしそのメールへの回答は、公式非公式を問わず今に至るまで受け取っておりません(という認識)。
佐藤先生の著書を読ませていただいた今となっては、言葉の大切さや筋を通すことの大事さ、更にはいわゆる保守派もいわゆるリベラルも今の日本では同根であることに、もっと思いを致し、軽率な投票行動は慎むべきであったと、自分の知見の低さを反省する今日この頃です。
明日の「。」についてもご見解も楽しみにしております。
自分は、ややマゾでは、と思う今日この頃です(笑)