じつのところ今日は
【イブセキヨルニ・ギャラリー】の3回目をやろうかと思ったのですが、
あまりに面白いネタが見つかったので・・・
平松さん、すみません。
もう少しお待ち下さい。
さて。
数日前、ツイッターにこんな画像が出ていました。
東大和9条の会が作成したポスター(およびチラシ)とか。
亀山ののこさんという写真家の作品なのだそうです。
ツイートした方は、非常に気に入られた様子で
草の根民主主義は生きていると絶賛。
これも草莽崛起の一形態らしい。
しかしですな。
このポスターの文章には
<九条崇拝>の是非とは関係なく、とんでもない問題がある。
ここで提起されている「想像」の内容は何か?
1)自分が誰かを直接的に殺すこと
2)自分の家族、友人、恋人が直接的に殺されること
以上です。
サイバー攻撃やドローンが普及した現在、
戦争になったからといって
自分の手で誰かを殺さねばならないとは限らないのですが
それはまあ、よしとしましょう。
最大の問題は「想像」の内容に
<自分が殺されること>が含まれていない点。
どうしてですかね?
常識的に考えて、
そのほうが「平和」や「反戦」を訴えるうえでも良いと思うのですが。
あなたがその手で
誰かを殺すのを
あなたの父や母や兄弟や
友だちや恋人が
誰かに殺されるのを
のあとに
そして最後には
あなたも殺されるのを
があったら、インパクトは強まるに決まっているじゃないですか。
つまり東大和9条の会のみなさんは、
戦争が起こっても、自分だけは絶対に助かると思っているのに違いない。
自分が殺されるなどということは
想像することすらできないのでしょう。
にもかかわらず、
戦争への危機感なるものを自分たちが持っている(はずだ)という
しょうもない錯覚に陥っている。
「<敵>が立派なのは良いことだ」という
福田恆存の法則©にしたがっても
この太平楽ぶりには許しがたいものがあります。
先週の「おはよう寺ちゃん 活動中」で私は
安全保障をめぐる戦後日本の矛盾に向き合わないかぎり、
集団的自衛権をめぐる議論は<ひとりよがりの応酬>に終わるだろう
という趣旨のことを述べましたが、
その見本のような例ではないでしょうか。
というわけで、ポスターの文章を書き直しておきましょう。
想像してみよう
もしも平和を訴えるつもりで
みずからの危機意識の甘さを露呈してしまったら
どんな戦争が起ころうと
自分だけは大丈夫と勝手に決め込んで
その根底にひそむエゴイズムにすら無自覚なまま
<戦争をめぐる危機感>にめざめたつもりになっていると
進んで白状してしまったら
それでもあなたは
憲法9条を放棄しますか? と問いかけますか
ちなみにこのポスター、
9条の会の関係者には大好評なのだそうです。
いわく。
若い人たちにも目をとめてもらえるデザインで・・・という要望にぴったりの作品。
こういうセンスのいいポスターが全国で貼られると情勢が変わる、と思います(。)
何というか・・・
平和を本気で訴えたいなら、もっと真面目に物を考えるべし!!
ではでは♬(^_^)♬
4 comments
平松禎史 says:
6月 1, 2015
このポスターにはボクも絡んでしまったので「イブセキヨルニ」の方はいつでも構いません。
というか、これも十二分に「いぶせき」ことでございます。
カインズ says:
6月 1, 2015
ひょっとしたら、このポスターは、「他者を殺害し、大事な人達が殺された時の苦しみは、自分が殺される苦しみよりも大きいのだ」ということが言いたいのかなとも思いましたが、そう解釈するにもやはり言葉足らずの感がありますね。
Egin says:
6月 1, 2015
この東大和というのは多摩地区のチベットみたいな辺境の地、相変わらず駅で共産党のビラを配っているのはお爺さん、お婆さんばかりです。若い女性の写真が入ったデザインがよほど気にいったのでしょう。お年寄りたちのお孫さんに似てるのかな?
フルート says:
6月 2, 2015
写真の中央に白い柵の囲いがあります。自然は囲いの中にも外にも広がっていますが、このポスターは、いわゆる『誰だ!花園を荒らす者は!(怒)』の女性バージョン、『誰ですか?花園を荒らす方は』(?)を表出している様にも私には感じられました。
日本には日本の・外国には外国の自然があって、そこには(誰かと言うよりも)人間が居るのだから(或いはかつて居て、歴史を残したのだから)、これらを無暗に破壊しては成らない。ここまでなら、ポスターのメッセージとして私は(もう趣旨を勝手に変えてしまったかも知れませんが)首肯できない訳ではありません。問題は、『想像』してみた・させようとするその内容の発端に打ち立てられた『戦争を受け入れて』・・・という言葉と、『それでもあなたは憲法9条を放棄しますか』?と言うその終わらせ方に現れている様に思います。
広辞苑の第五版によりますと、『放棄』とは、
1)なげすてること。すておくこと。「責任を____する」
2)自分の権利・利益を使わずに喪失させること。「戦争の____」
となっているのですが、おそらく九条の会のみなさんは、日本国憲法第九条の第一項と第二項の文面から、『われわれは武力を「放棄」し、それと引き替えに現実を超越する倫理的・道義的な力・責任・権利を所持したのであり、その点でわれわれは他国民より優れている。いや、優れる為に、もっと大きな「放棄」がされたのでなければ・・・(もはや実際には持っていなかったものさえも、「放棄」されたのでなければ・・・)』という考えを暗黙の前提として持ち合っている筈です(何かを『放棄』するには、『放棄』される何かが必要で、そして『放棄』により逆に得られるもののその大きさは、『放棄』された筈のものの大きさとおおかた比例している筈・・と考えられたのかも知れません)。ですがこの様な九条の会の考え方から、それこそ力や責任や権利と言った概念の体現を感じ取る事に私が躊躇するのは、やはり『戦争を受け入れて』・・・というその話しの始め方・・・ここに欺瞞性と危険性をこそ感じるからです。
寧ろ私には、本当は所持できてなどいない・体現できてなどいないものを所持できているかの様に言い、持ちたくなくとも本当は持っているものを持っていないと言ったりし、その結果混乱を極め、未熟さには付け込まれ・また自分からも付け込んで、互いに寄り掛かり合って責任から逃れている様なこの現状をありのままに直視する事の中にしか(ありのままを『受け入れる』事の中にしか)、本当の意味での力・責任・権利など無いし、これ無しには本当の意味での自由など保ち得ない(外国からの領土侵略なども『受け入れる』事になってしまう)筈、またありのままの外にある様な力・責任・権利は、自分達にはコントロールできないものなのだから、それらを所持していると考えるのは間違いなのでは?とも思えるのです。ですから私は、例えばこのポスターに心を動かされて、現在の安倍政権の政策に反対を訴える様な方の心情・理屈にも、実は一定の理解・納得するものを同時に感じてもいます。自らをコントロールできていないのは、一般国民だけじゃなく、安倍政権だって同じだからです。
しかし、どうしても私が納得できないのは、このポスターを称揚された方が、男性だったと言う事です。『誰だ!花園を荒らす者は!(怒)』という自身の心情・立場に、いわば『誰ですか?花園を荒らす方は』という女性の心情・立場を持ってくる事で、現実と向き合わない自分の不甲斐無さを、いわば女性を盾に取る事によって誤魔化している様にも思えるからです。
すごい長文失礼致しました。。