さて、ワカスミさんへのお返事
後編となりますが・・・
その前に気づいたことをひとつ。
前編では「子供の態度」について
次のように規定しました。
1)相反すると通常見なされる価値が、つねに相反していると信じ込む
2)それをゴチャマゼにする特権が自分に(だけ)あると思い込む
3)ゴチャマゼにすることにメリットのみを見出し、デメリットの存在を想定しない
4)ゆえに価値をゴチャマゼにしない世間の人々は、自分よりバカなのだと決めつける
ところがですな。
こんなふうに、ちょっと変えるとどうなるか?
1)既存のシステムは、既得権益と弊害の塊だと信じ込む
2)それを根本からひっくり返す特権が自分に(だけ)あると思い込む
3)ひっくり返すことにメリットのみを見出し、デメリットの存在を想定しない
4)ゆえに既存のシステムを守っている世間の人々は、自分よりバカなのだと決めつける
お分かりですね。
これは改革推進キッチュの論理そのものなのです!
ちなみに改革推進キッチュって何?
と思った方はこちらをどうぞ。
・・・さて。
ワカスミさんの質問の後半部分はこうでした。
また私自身、保守という立場を勉強し始めたばかりというのもあり、
そうした価値の対立にあたって、
価値相対主義に陥ることなく、
その対立を乗り越えて真理に辿り着かんとする姿勢が取れず、
安易に特定の立ち位置に流れてしまうのですが、
世の多くの政治家や所謂知識人を見る限りでは
人生経験の多寡が大人の思考を醸成するものとも思えず、
半ば絶望しているのですが、
何が要因となって大人になれるか否かが左右されるのでしょうか?
まず
人生経験の多寡が大人の思考を醸成するものとも思えず
の箇所は、まさにおっしゃるとおりです。
人生経験などないほうがいい
とまでは言いませんが、
年を取れば取るほど
思考が硬直して子供じみる人のほうが
年を取れば取るほど
思考が老成して円熟する人より
ずっと多いというのが偽らざる現実です。
ならば、後者の道を歩むために必要なものは何か?
カギとなるフレーズは、じつはワカスミさんの質問の中にあります。
価値相対主義に陥ることなく、
その対立を乗り越えて真理に辿り着かんとする姿勢が取れず、
安易に特定の立ち位置に流れてしまう
緑色の文字の部分にご注目。
真理に辿り着かんとする
というのは
真理にたどりつける
ことを保証しません。
ただし、だからといって、
真理にたどりつこうとしなくてもよい
ことにはならない。
真理にたどりつこうとしなければならない。
ただし、人間ごときが
本当の真理にたどりつけるはずはない。
この二律背反を受け入れることこそ
保守思想に基づく「大人」の条件だと思います。
真理にたどりつこうとしなくてもいい
と構えたら、価値相対主義になる。
真理にたどりついたはずだ
と構えたら、これは絶対主義です。
真理にたどりつけるはずはないが、たどりつく努力はつづけねばならない。
これがポイントではないでしょうか。
ノーベル賞作家サミュエル・ベケットの言葉を借りれば、こうなります。
いつもチャレンジしてきた。
いつも失敗した。
だが、それはどうでもいい。
またチャレンジするんだ。
また失敗するだろう。
だが、次の失敗では少し先に行ける。
ではでは♬(^_^)♬
9 comments
やまねろん says:
9月 17, 2016
>思考が硬直して子供じみる人のほうが、年を取れば取るほど、思考が老成して円熟する人よりずっと多い
ダイアナ・ウィン・ジョーンズが興味深いことを述べているんです。
「大人向けの作品を書いている最中、自分がこう考えていることに気がついた。(かわいそうに、大人たちにはこんな内容、理解できないに決まってる。もう二回説明して、さらにそのあと、ちがう言い方で思い出させてやらなくちゃ)若い読者向けに書いているときは、こんなことを考える必要はない。子どもたちは理解しようと努めることに慣れているからだ」
覚えて慣れるとは、その事柄を脳のショートカット機能に設定することなんですよね。
制度や様式を覚えて身につけた後、腐敗すれば、固定観念になるのでしょう。
発酵させる鍵は、好奇心でしょうかね。
SATOKENJI says:
9月 17, 2016
ダイアナ・ウィン・ジョーンズと言えば、「ハウルの動く城」の原作者ですね。
同作品は宮崎駿さんによってアニメ映画化されましたが、それが抱える問題については、こちらで詳細に論じました。
「夢見られた近代」
http://amzn.to/1JPMLrY
Guy Fawkes says:
9月 17, 2016
今回の保守思想に基づく「大人」の条件、一連の記事を拝読して少し思い立ちました。
というのも、以前佐藤先生は「現代日本人は外国から褒められるとそれを手放しで感謝するのに、
批判的な意見を言われると不貞腐れて顔を真っ赤にして憤る」という様な
ニュアンスのご意見を取り上げられていたと思われます。
それを件の「大人」の条件と先日の「世間的価値観へのチープな反抗、またはうわべだけのツッパリ」
の記事にあった福田恆存さんの「偽善と偽悪」と共に考えると、
先月のシンポジウムで浜崎洋介さんや西部先生が仰っていた様に
「鈍感と欺瞞のアマルガム(浜崎さん談)な主体性故に、他から痛いところを突かれると瞬く間に
統合失調(西部先生談)なコチャマゼ一緒くたの思考停止を曝け出す」という本質が
保守・革新、その他全てに感じられます。
即ち、自身を卑下ないしは『悪』として見做される様な言動を他ならぬ自身がしているにも拘らず、
自分の中で「実は僕ちゃんとてもいい奴なんだぞ」という他者の善意に甘えた「偽悪」的性根が存在する。
ところが他者に指摘されるとそのナイーブな思い上がりがあっさり看破される事でたちまち狼狽するか
支離滅裂な言動でその場を取り繕おうとする(で、結局は更に醜態を重ねてしまう)
そして、当然そんなキッチュまみれなものだから道理の弁え方を知る事ができない。
故に二律背反を受け入れた上で平衡感覚を保つことなんて夢のまた夢…
近現代日本はこれを只管繰り返して時間を浪費してきたのではないでしょうか?
なんと申しますか、この辺に「僕たちは戦後史を知らない」で語られた戦後特に顕著になった
「歴史に筋を通さない代償」と通ずるように感じられるのです。
『どんな親しい友人でもお互いに裏切りつつ付き合っているのかもしれない。
友人であるということは、後ろを向いたときに刀で刺さないというだけの意味だと思っています』
-江藤淳 猪瀬直樹氏との対談にて
ホワホ says:
9月 17, 2016
誰しも苦手な事よりも得意な事を活かして生きていくものです
それなら経験が活きないのも当然かもしれませんね。
これは自分の中に落差を作る生き方でもあるので
都合よく思ったほど頼りにはならないが
都合悪く思うよりは頼りになるんでしょうね。
(或いは逆)
ワカズミ says:
9月 17, 2016
今回もありがとうございました。
本当の真理には辿り着けない、それを受け容れてなお真理を追い求める…そういった覚悟のようなものが身に付けられるか私自身、なかなか難しいところがありますが、この先心掛けていきたいと思います。
改革推進キッチュと関連付けたお話も大変興味深く読ませて頂きました。
改めて、ありがとうございました!
TOMAS参式 says:
9月 17, 2016
「真理にたどりつけるはずはないが、たどりつく努力はつづけねばならない。」
これを保守思想の大人というなら、この大人の世界というのは実に大変な世界ですね。その二律背反を受け入れるというのは、恐らく普通の人間にとっては相当な苦のはずですよ。仮に其が大人であったとしても、此のような苦であることに変わりない世界にポンポン子孫を残そうとする保守思想の大人というのは一体何者なのでしょうか。理性的に考えれば、人口を減らしていくことの方が、佐藤さんの定義するようなキッチュを減らしていく一番の方法だと思うのですが。私の推測によると、そのような厳しい条件が保守思想の大人ないし大人候補を追い詰め、動物的本能に向かわせていると思えなくもないのですが。保守思想の大人は、(極々一部の例外はあったとしても)どんなに失敗しても前に進もうとする傍目から見てカッコいいと思われそうな生き方の実践よりも、最終的には本能が勝るものなのでしょうか。是非ともご持論お聞かせください。
SATOKENJI says:
9月 17, 2016
本能に向かわせないよう、保守思想の大人を支える役割を果たしてきたのが
つまり伝統の力だったということでしょう。
裏を返せば、伝統が形骸化した時代においては、保守派だって容易にダメになります。
世の中、良い方向に進むという保証はどこにもないのですよ。
玉田泰 says:
9月 19, 2016
前回の記事で自分はガキなのだと思い知ってこの記事を読んだので、まず引っかかったのは「子供じみる人」でした。
自分に当てはめて考えたのですが、僕の答えは真逆の「思考が柔軟過ぎて子供じみている」でした(過ぎたるは猶及ばざるが如し)
そしてこの記事の核心である「真理にたどりつこうとしなければならない」と「たどりつけるはずはない」の二律背反は目下実践していると自負しています。
結局、僕は大人かガキか答えは自分には判りません(苦笑)
玉田泰 says:
9月 19, 2016
追記。多分、非常識(ガキ)な大人、くらいが収まりが良いのでは?