9月6日の記事
「これは全てアメリカのせいだ(笑)!」について
こんなツイートをいただきました。
これは便利な言葉で…(笑)
戦後は特に何にでも使えそうなネタです。
絶対にあり得ませんが、アメリカ自身が
これは全てアメリカのせいだ
と言ったら世界に平和が訪れるかもしれません。
さっそく
あの国の場合、「これは全てアメリカのおかげだ」とか言いそうですね(笑)。
とお返事したのですが・・・
考えてみれば
「これは全て○○のせいだ」と
「これは全て○○のおかげだ」の間に
本当のところ、どのくらいの違いがあるのか?
思えば、
国際的に複雑な問題が起きるたびに
「これは全てアメリカのせいだ」と言い張ったおかげ、
もとへ言い張ったせいで
当該のフレーズが政府風刺のジョークとして流通するまでにいたった某国では
何かにつけて
「これは全て将軍様のおかげだ」
「これは全て敬愛する指導者同志様のおかげだ」
などと強調することでも有名。
わが国においても
都合が悪いことがあるたび
「これは全て自民党政治のせいだ」
「これは全て安倍総理のせいだ」
と言い張るタイプの方々には
何かにつけて
「これは全て憲法九条のおかげだ」
「これは全て戦後の平和主義のおかげだ」
などと強調する傾向が見られます。
現憲法を押しつけた、
もとへ主権の存する日本国民の総意によって確定すべくうながしたのは
アメリカ、
ないしダグラス・マッカーサーですから
「これは全てアメリカのおかげだ」
「これは全てマッカーサーのおかげだ」
と言ったら、
もっと的確ではないかと思うのですがね。
のみならず、
都合の悪いことがあるたび
「これは全てアメリカの占領政策のせいだ」
「これは全て反日勢力のせいだ」
と言い張るタイプの方々にも、
何かにつけて
「これは全て日本人の偉大さのおかげだ」
「これは全て英霊のおかげだ」
などと強調する傾向が見られます。
・・・はたしてこれは
わが国の言論状況について
何を暗示しているのでしょうか?
「せい」と「おかげ」は表裏一体、
ないし紙一重の間柄。
そうわきまえることから
始めようじゃないですか。
ではでは♬(^_^)♬
4 comments
mash says:
9月 8, 2016
自分は何でもアメリカのせいだとか言うつもりはないですが
しかし少なくとも戦時中から戦後今日に至るまでアメリカの影響を多大に受けてるのは間違いないと思います
MXテレビで西部先生が講演でも仰ってましたが平成の時代はもっとアメリカニズムが至る所で推し進められたと述べてますがその通りだと思います。なんでもかんでもアメリカのせいとか言うつもりはありませんが
個人的にはアメリカは日本の政治や経済や社会や文化に至るまで日本に口出ししないで欲しいなと思ってます
それはアメリカの声とか意見とかを利用する人達が保守でも左翼でもノンポリでも日本には居るっていう事実がありますから。
フルート says:
9月 8, 2016
《お蔭》は、〈力添え〉とか、〈加護〉とか、〈神仏のたすけ〉などの意味も強いので、「◯◯のおかげだっ!」ってなっている時には、事物の肯定的成立に不可欠な根本条件としての要素が、「◯◯のせいだっ!」ってなっている時には、否定的な原因が、それぞれ求められている場合が多いように最初思ったのですが、
でも「◯◯さんのおかげでこうしてひどい目にあってる訳だけど~」とか、意識してわざと自分から「おかげ」と「せい」を入れ替えたり・それぞれにあった意味を混ぜたりしながら、自分と◯◯さんをひねっている自分を相手に見せたり・共有させようとしたりしている場合以外でも、そもそもとある原因だったり要素を見つけようとしたり・思い出そうとしたりしながら、その原因や要素のかたちを頭の中で常に加工していったり・その原因や要素に古くて新しい意味を付与していっている自分が常にいる上に、その自分の中にもあってまだ自分でははっきり気づいていなかった自分の要素や状況からの既定を、相手による発見から自分の中に見つけようとしたり・相手を観察した自分の観察から自分の中に見つけようとしたり、自分の知っている知識上の推測から相手の中にもあると見られる原因を相手に向け指摘したり・・を、人間は繰り返しながら自分を広げていっている事を思ったら、「おかげ」と「せい」はやっぱり表裏一体で、2つは軽軽には切り離せないと思いました。
しかも(だからこそ)正しかったり確かな知識や経験は、自分と相手の両方に広がっていくべきなので、自分と相手の境界であったり違いをどの辺りに感じたり設けたりするのかの難しさはずっと続くけど、この難しい問題にずっと向かい続けないといけないと思いました。(これを取り払ってしまったら、自分の責任を相手に転嫁させる過程で却って自分や相手が分からなくなってしまう面もありそうに思ったからです。長文すみませんでした。。)
guy fawkes says:
9月 8, 2016
「全て〜の所為だ・お陰だ」
こんな非論理性が罷り通るのも主体性が根本から欠如しているあらわれでしょうね。
全肯定と全否定とは詰まるところ、思考停止による議論の放棄でしかないのですから。
玉田泰 says:
9月 14, 2016
言われてみると「せい」と「おかげ」の差って白黒はっきりではなく、前後の文章から簡単に入れ替え可能で、肯定、否定、両方のニュアンスをほのめかす事が出来ますね。
どちらも相手との関係を独断で言い切る場合に使われるのでしょう。関係性自体に自らの価値観を押し付けるための、使う側にとって便利であいまいな言葉ですね。
実はコミュニケーション拒否の象徴のような言葉なのかも知れません。