5月6日の記事で取り上げた
「風が吹くとき」ですが
アニメファンならずとも、
これを聞いたら、思い起こすタイトルがあるはず。
そうです。
2013年に宮崎駿さんが監督した
「風立ちぬ」。
公開当時は引退作品と言われました。
もっとも宮崎さん、
出世作「風の谷のナウシカ」のころから
何かにつけて引退を叫ぶくせがあった人。
1997年の「もののけ姫」も
最後の作品ではないかとずいぶん言われました。
「風立ちぬ」は70歳を過ぎての作品ということもあって
いよいよ本当に最後か?
と思わせるものがありましたし、
ご本人もそのつもりだったと推測されますが、
結局は新作長編の絵コンテに取りかかっているとのことです。
彼のような天才は
どれだけ年齢による体力の衰えを感じようと
結局、つくることをやめられないのでしょうね。
それはともかく。
「風が吹くとき」の原題は
WHEN THE WIND BLOWS.
一方、「風立ちぬ」の英語題は
THE WIND RISES
となっています。
英語でも明らかにつながりが感じられますが
ポイントは「風が吹くとき」が
近未来の核戦争を描いているのにたいして
「風立ちぬ」は
太平洋戦争において活躍した
零戦を設計した人物の物語であること。
しかるに太平洋戦争こそは
史上初の核爆発で幕が下りた戦争だったのです。
・・・というわけで私は
「風立ちぬ」を観るにあたり、
宮崎駿は「風→戦争→核爆発」の図式を踏まえたドラマを展開するのでは
と期待していました。
「風に乗って空を飛ぶ」ことへの素直な憧れから、
人間は飛行機を開発した。
しかし飛行機は軍事利用されることで、
戦争のあり方を大きく変えた。
そして1945年、
飛行機から核爆弾が投下され、
世界を滅ぼすことになるかも知れない風が吹いた・・・
そんなコンセプトで物語をまとめるのではと思ったのです。
この解釈にしたがえば
広島・長崎への核攻撃は
まさしく真珠湾攻撃の帰結になる。
1941年末に生まれた風が
1945年夏、猛然と吹いたというわけです。
そして占領時代、
日本では飛行機産業が禁止されることに。
言い替えれば、風に乗ってはいけなくなってしまいました。
飛行機に憧れ、
真珠湾攻撃に使われた戦闘機をつくった男は、
この歴史にどう向き合うのか?
こう言っては何ですが
この方向性で作品を仕上げていたら
「風立ちぬ」は大変な傑作になったと思いますよ。
テクノロジーと戦争の関係、
何かを夢見ることの責任など、
いろいろ深いテーマが扱えますからね。
そして映画の前半には
この方向に進みそうな気配があった。
いや、観ていて興奮したものです。
しかし後半、宮崎監督はみごとにこの方向性を放棄する!
戦争が近づいてくるにつれて
零戦の開発をめぐる物語より
主人公のラブストーリーが前面に押し出され
ついには真珠湾攻撃すら描かないまま
夢の世界に自閉する形で終わってしまったのです。
なにせ主人公の堀越次郎は
映画の幕切れ、
時間も空間も飛び越える形で
尊敬していたイタリア人の先輩設計士
ジャンニ・カプローニと酒を飲みに行くんですから。
これじゃ「風立ちぬ」じゃなくて「風止みぬ」だろうに!
とまあ、失望させられたわけですが
今にして思えば
零戦の設計者を主人公にした映画をつくりながら
戦争の現実にまったく直面できなかった
宮崎駿さんの姿勢は
北朝鮮の弾道ミサイルの脅威について取りざたしながら
ミサイルによる破壊の現実にまったく直面できていない
わが国政府の姿勢と
みごとに重なります。
そしてそのような姿勢が
「風が吹くとき」を思い出させる
とコメントにいたっては
もはや出来すぎというべきではないでしょうか?
そうです。
風が立つことを直視できなかった者は
風が吹くことにも直面できないのです。
だ・か・ら
『右の売国、左の亡国』と言うのですよ!
ではでは♬(^_^)♬
14 comments
GUY FAWKES says:
5月 9, 2017
>しかし後半、宮崎監督はみごとにこの方向性を放棄する!戦争が近づいてくるにつれて零戦の開発をめぐる物語より主人公のラブストーリーが前面に押し出されついには真珠湾攻撃すら描かないまま夢の世界に自閉する形で終わってしまったのです。
>なにせ主人公の堀越次郎は映画の幕切れ、時間も空間も飛び越える形で尊敬していたイタリア人の先輩設計士ジャンニ・カプローニと酒を飲みに行くんですから。
>これじゃ「風立ちぬ」じゃなくて「風止みぬ」だろうに!
堀越二郎を演じたのは『風の谷のナウシカ』で巨神兵の原画を担当した庵野秀明さん。
鈴木敏夫プロデューサーに零戦が飛ぶシーンを描かせてほしい旨を伝えた様ですが、どういう訳か主人公の演者に抜擢。
そして、昨年に監督として手掛けたのが『シン・ゴジラ』
当該作品への佐藤先生の「ガラパゴス上等ではないのか」というご指摘と今回の「夢の世界に自閉する」幕引き…
師弟関係…とするのは違うらしいのですが、両者の共通項もおぼろげながら見えてきたのかもしれません。
「ハヤオ的美学」は左右共通の思考停止!?(苦笑)
SATOKENJI says:
5月 9, 2017
プロの役者や声優でない庵野さんをわざわざ主役にしたのは
「堀越次郎はアマチュアとして時代に関わった」
(=零戦を開発しても、戦争による破壊に責任はない)
ということを暗示したかったためではないかと思っています。
福岡ワマツ says:
5月 9, 2017
>風が立つことを直視できなかった者は
>風が吹くことにも直面できないのです。
成る程、それ故に、そのような者による言説には欺瞞が入り込むのでしょうね。例えば我が国政府のように。
そのような状況を端的に表現すると、次のように言えやしませんか。
『ホラを吹くとき』。
SATOKENJI says:
5月 9, 2017
W(^_^)W\(^O^)/秀逸\(^O^)/W(^_^)W
GUY FAWKES says:
5月 9, 2017
『ホラが吹くとき』キャッチコピー:「熱り立たねば。(手前勝手な世界観が崩壊するので)」
「なにかが大きく変わるときというのは、うれしくないことをも含めて進むものだ」–糸井重里
洋一 says:
5月 9, 2017
なぜ「風立ちぬ」がつまらなかったのか。
漠然とした思いがありましたが、このブログを読んで、
なるほどその通りだなと感じました。
ただ私は、漫画ナウシカの完結以来、
宮崎駿がつまんない映画を作っても、佐藤さんが感じたような
「失望」を感じなくなったような気がします。
ナウシカがあるから許しちゃおって感じです。
なにしろあっち(ナウシカ)は風が吹きまくっちゃってますもんね。
SATOKENJI says:
5月 9, 2017
風が吹きすぎて基本設定をひっくり返した感も(笑)
・・・真面目な話、連載開始の段階では
宮崎さんも絶対、あの結末にするつもりはなかったでしょう。
その意味では破綻している作品ですが、
非常に魅力的な破綻だと思います。
あお says:
5月 10, 2017
戦中の日本人は軍部に騙された被害者だという歴史観に立つとああいう結末を迎えてしまうのも必然のような気がします。
たしか宮崎監督は、日本人であるというだけで、あの時代に加担したことになる、無実な人間を描くのは不可能。という発言をしていたと記憶していますが、こうなると日本人=被害者というのは成立しない筈です。
堀越の様な技術者までも被害者だったと見せかけるためには、堀越は他人や社会に興味がなく自分の美しい夢だけを追いかけるというエゴイストに設定するしかありません。
堀越はただ美しい飛行機がつくりたかっただけであり、そこには善も悪もなく、たまたま危機の時代に生まれてしまっただけという事で、戦争の責任から逃れられるという寸法です。
しかし美しい夢だけを追いかけるのが許されるのは子供の時だけでしょう。結局宮崎監督がやったことは子供のままの大人を美化しただけのように思います。自分の美しい夢さえ叶えば他はどうでもいいと構える人間に他者はいりませんからね、最後は夢の世界へと旅立って終わるというのも納得です。
漫画版ナウシカ最終巻でも思いましたが、ヒューマニズムに拘るあまりニヒリストになってしまったのが宮崎監督ではないでしょうか。
KATO says:
5月 10, 2017
佐藤さんの想定した筋書きであったら、宮崎駿の引退に反対する署名運動を起こしてましたね( ´艸`)
それは兎も角、メロドラマとしても、時代を駆け抜けた技術者の物語としても中途半端でしたね。
やはり、描くべきところを描かなかった為であろうと、本記事を見て得心致しました。
それはそうと漫画版のナウシカは、華麗なる論理破たんと勝手に命名してましたが、後年の彼のヒット作に比べて、欺瞞度が低いと感じます。(子殺し等の欺瞞)
完結前の佐藤さんの評論は見ましたが、完成品に対してどんな評価をされますか?
SATOKENJI says:
5月 10, 2017
もう一度、読み返してみないと詳しいことは言えませんが、
常識的なエコロジーの線で話をまとめようと思っていたら
問題の本質はもっと深いところにあると気づいてしまい、
その結果、宮崎駿自身にも作品世界が信じられなくなって
基本設定をひっくり返し、かなり強引にしめくくった
というところではないでしょうか。
欺瞞度が低いというのは、つまり
自分の破綻を隠そうとしなかった
ことの結果だと思います。
Daniel says:
5月 13, 2017
なるほど、漫画版のナウシカ評、納得しました。
しかし、そうだとしても、私が一つ作者の宮崎駿氏について感心していることがあります。それは、トルメキア王国ではその後、クシャナが代王となり、その後、トルメキアは王を持たぬ国となった、との記述です。
トルメキア王国が日本の保守派だと私は言いましたが、正に女系天皇とか女性宮家とか、その後の万世一系の皇統崩壊への議論(まぁ今回はそれを避けられそうではありますが、「退位」の話など、おぞましくて聞いてられません)を見ていると、彼の描いてた通りだなぁと。
まだ連載終了の頃は、旧宮家のご子息に政府から皇籍復帰の打診が密かに行われているなどという記事が出てたような、今日のような議論は全然考えられない頃だったので、あの慧眼は凄いなと思いました。
余り愉快な話ではありませんが、率直にそう思います。
SATOKENJI says:
5月 13, 2017
クシャナ殿下が死去したあとは、トルメキアも共和制になったりして・・・
ちなみに私は、宮崎駿は天才だと思っています。
つまらぬイデオロギーで少々、自縄自縛の気味があるのは事実ですが
それは彼の才能の巨大さを否定するものではありません。
Daniel says:
5月 14, 2017
宮崎駿がその当時、漫画版ナウシカの最終で描いた記述、
>トルメキア王国ではその後、クシャナが代王となり、その後は、トルメキアは王を持たぬ国となった
という記述は、正に佐藤先生の仰るとおり、
>クシャナ殿下が死去したあとは、トルメキアも共和制になった
というご指摘そのものです。
今まさに、当の保守派によって、それが日本の眼前に迫りつつあるという恐怖。
宮崎駿の慧眼たるや、恐るべしです。
彼はその後も、啓蒙や、文明、近代などといったものが、人間の紐帯、土地との結び付き、土着のワケの分らない神々や物の怪、秘蹟やら魔法やらと人間の結び付きとを、見事に剥ぎ取って、人が丸裸にさせられていく悲惨さを、まるでデュルケームやマルクスがそれを指摘するように、繰返し繰返し描き続けました。
彼の左翼的背景を鑑みれば、それもまた然りというところでしょうが、でもしかしながら、私はそこに彼の哀しみ、その保守性より来る哀しみが誠に感ぜられるような気がして、とても愛おしく思うのです。
やはり天才(の表現)は、そういうものなのでしょうかね。
玉田泰 says:
5月 14, 2017
「天才は」「つくることをやめられない」
天才とは、才能が人格を越えてしまった人だと思います。
ロック界屈指の天才がジミ・ヘンドリックス(通称、ジミヘン)
「(ギターを)鳴らしていないと気が狂う」旨を
インタビューで語ったとか?