マンガには
「コミック・ライセンス」と言われるものがあります。
要するに、マンガだからこそ受け入れられる
誇張された(=現実ではありえない)表現のこと。
手塚治虫さんはこれを「マンガの嘘」と呼びました。
巨匠いわく、
漫画にとって、ウソはだいじなものだ。
ことに絵のウソは、どうしても必要なのである。
荒唐無稽さ、デタラメさを抜きとった漫画が、
いかにつまらないか、考えてみるといい。
(手塚治虫「マンガの描き方」、光文社カッパ・ホームズより)
しかるに戦後日本のマンガでは、
このような「コミック・ライセンス」が、
日本人と欧米人の違いを曖昧にするという形でも表れました。
伝統的な少女マンガの
「目がとにかく大きく、瞳に星がきらめいているヒロイン」は、
その典型例ではないでしょうか。
ほかならぬ手塚さん自身、
あれは欧米コンプレックスの反映ではないかとコメントしたくらいです。
他方、昨日の記事で取り上げた「英語化の波」も、
日本の大学を、
あたかも欧米の大学であるかのごとく見せる意味合いを持っている。
なにせ学生寮をわざわざ「ドミトリー」と呼ぶわけですからね。
こう考えるとき、
英語化というのは、日本の現実のマンガ化である
と見なすことができます。
大学における英語化の進展について、
現実がアニメになってきたような感じがするというのは
その意味でまさに的確でしょう。
ちなみにこれについては、
今日の「新日本経済新聞」に施さんが寄稿した記事
「ヘイトスピーチ規制の本末転倒」
も参考になります。
また2008年に私が刊行した
「夢見られた近代」にも、
関連した論考があるのですが、
それについてはまた次回。
ではでは♬(^_^)♬
6 comments
カインズ says:
1月 24, 2015
「さくらじ」でしたでしょうか、「セーラームーン」や「エヴァンゲリオン」の台詞を現実で言ってみるといかに恥ずかしいかを実証してもらっていたことがありましたね。それなのに大学の教授達が「今の時代、寮では古くさいのでは?」、「では、ドミトリーなんて、いかがでしょうか?」なんてやっていると考えると滑稽ここに極まれりという感じがします。
鈴木孝夫氏が、日本は物質的な進歩発展に役立つと思うものは固有の文化や宗教伝統に反するものでも取り入れ、古くて効率が悪いと思えば長年の風俗習慣でも平気で捨ててしまえるところがある(鈴木孝夫『日本人はなぜ日本を愛せないのか』、新潮社、2006年、152頁)と言っていることを思い出しました。保守という観点からすれば、なかなかとんでもない国ですね。移民の受け入れもしていくようですし、このまま行くと外国人とのコミュニケーションのためにもとか言ってまたぞろ日本語廃止論なども出てくるのではないでしょうか?
ジャグラー says:
1月 24, 2015
私が佐藤さんに強く希望したいことがあります。
「経済評論家になってほしい!」
三橋さんのサイトで佐藤さんの経済観測能力の高さを痛感しました。
文学的な感受性の高さだけでなく、他の面でも高い才能をお持ちだと思います。
今、日本の経済論壇は危機に瀕しています。
出鱈目なことを言う人が増えています。
ここは三橋氏や渡辺哲也氏の他に、佐藤健志という柱を立てて、三位一体の三本柱体制で、日本の経済論壇を正しい方向に牽引することが重要ではないかと考えます。
すみません、話が横道それましたが、私が佐藤さんにお訊ねしたいのは、経済評論家になるという選択肢はありませんか、という質問です。
お答え頂けたら幸いです。
よろしくお願いします。
SATOKENJI says:
1月 24, 2015
ありがとうございます。
経済の本質が「経世済民」であるかぎり、
政治や社会、あるいは文化を論じることも、経済を論じることにつながると思います。
そういう意味での「相互乗り入れ」ができると良いですね。
なお、コメントの中にあった第三者への言及をカットさせていただきました。
ご了承下さい。
CROOKEDRAIN says:
1月 24, 2015
まさに『コミック雑誌なんかいらない』のような状態ですね。。
4444 says:
1月 25, 2015
漫画内では、おっしゃるとおり人物の目が大きく描かれることがしばしばあります。
では欧米人の別の特徴である大きな鼻は同様に描かれているのか?
そんなことはありませんよね。
大半の作品内ではむしろ小さめに描かれることが多く、
ほとんどない場合も少なくありません。
漫画が理想を具現化したものだという前提に立てば、
目は大きいほうがいいが鼻は小さいほうがいい、ということになるのみです。
ようするに欧米などとは基本的に関係がないものと思われます。
これはアニメにも同じことが言えますね。
したがってむしろ、このような欧米とは逆を志向しているものが
まさに目と鼻の先にあるにもかかわらず、そうでないもののみをもって
「欧米コンプレックス」があるなどとみなす者にこそ、
他ならぬ欧米コンプレックスが存するのであると考えたほうが自然でありましょう。
「まるで現実がアニメの世界になってきたように感じられてしまう」
との発言者も、ほとんどご自覚のとおり、ご自身に区別がついていないのであって、
それを(己を除いたうえで)日本人に区別がついていないなどと敷衍するのは
いかにも恣意的というものです。
いかに(日本)社会のさまざまな部分に欧米志向が見られたとしても、
(日本の)漫画が欧米を志向していない以上、
(日本の)現実が(日本の)マンガ化している、とは言えないと考えます。
カインズ says:
1月 25, 2015
この記事で例に挙げられているのが伝統的な少女マンガですので、ためしに「エースをねらえ!」を画像検索してみましたが、鼻もけっこう高めに描かれていると思いますよ。また、英語化ということで言えば、マンガに登場するキャラクターの名前や必殺技の多くが英語(をはじめとする外国語)であることも指摘できるのではないでしょうか?
また、自身の「まるで現実がアニメの世界になってきたように感じられてしまう」という間隔を日本人に敷衍するのが恣意的とのことですが、日本の最高学府である大学という場で過度の英語化(マンガ・アニメ化)が行われているという記事を受けてのものですから、ある程度の敷衍は許されるのではないでしょうか?このほかにも、「スーパーグローバル大学」なる事業もなされている時代でありますしね。