イスラム国による日本人拘束事件は、
湯川遥菜さんにつづいて
後藤健二さんも殺害されるという、
悲劇的な顛末になってしまったようです。
あらためて、哀悼の意を表します。
さて、今回の事件をめぐっては
あんな危険なところに行く方が悪い
といった、
いわゆる自己責任論がかなり見られました。
これは非常に興味深い発想です。
なぜか。
その場合、湯川さんと後藤さんの殺害を
「非道、卑劣極まりないテロ行為」とか
「許しがたい暴挙」と呼ぶことは必ずしもできず
(だって殺された方の自己責任なんですからね)
よってイスラム国を非難する根拠も弱まります。
ちなみに太字にした部分は
安倍総理の声明にあった言葉ですよ。
そしてイスラム国を非難する根拠が弱まる以上、
「テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせる」
という主張も、説得力の乏しいものとなる。
と、なると。
自己責任論を唱える方々は
そうと自覚しているかどうかはともかく、
日本がテロにたいして毅然とした態度を示すのがイヤなのだ
と言われても仕方ありません。
とはいえ、どうしてテロにたいし
毅然とした態度を取るのがイヤなのでしょう?
お分かりですね。
後藤さん殺害の動画における
ジハーディー・ジョンの言葉ではありませんが、
その場合、日本もテロの対象となる危険が高まるからです。
言いかえれば、自分たちが巻き込まれる恐れも強くなる。
と、なると。
自己責任論の根底にあるホンネは
ざっくり言ってしまえば
「どうしてこんな厄介なことになったんだ。
オレはとにかく、テロとは無関係でいたいんだ。
そのためには人質が犠牲になったって知ったことか」
と要約できます。
さらに。
自己責任論を公然と主張することの根底にあるホンネは
「オレに限らず誰だって、
自分さえ安全ならいいと思っているはずだ」
と要約できるでしょう。
でなければ、内心そう思っていても
発言は控えるはずですからね。
このすべては何を意味するのか?
このような姿勢をどう評価すべきか?
それはみなさんのご判断にお任せします。
ただし安倍総理の声明にもあるとおり、
国民の生命と安全を守るのは、
国家として当然果たされるべき義務なのです。
後藤さん追悼のため、「ではでは」は省略いたします。
15 comments
ソウルメイト says:
2月 2, 2015
ご労作、「愛国のパラドックス」の中で、周到で緻密な考察をなさった佐藤さんのお言葉としては、少なからず、断定の度が過ぎるのではないでしょうか。佐藤さんは、反対意見にも学ぶべきところがあり、自己の依って立つ立場や自説を絶対化しないことが、まっとうな保守主義的な考ええ方だ、と書いておられますよね、わたしは、そう書かれた部分にいたく感銘を受けたわけですが、そのような考え方を敷衍すれば、自己責任論論を唱える人たちの主張や考えにも学ぶべき点や理解を共有できる点をさぐる、というのが佐藤さんが推奨されるあり方なのではないかと思います。一概に反対意見を間違いと断ずることは、ご主張の趣とはかけ離れているのではありませんか?
SATOKENJI says:
2月 2, 2015
「自分さえ安全ならいい」という発想にも、むろん学ぶべき点はあると思いますよ。
その発想で本当に安全が守れるかどうかは保証の限りではありませんが。
カインズ says:
2月 2, 2015
私が今回の事件と自己責任論に関して感じたことは、被救助者に過失がある場合の自然災害との類似です。例えば、事前に大雨警報が出ていたのにキャンプで川の中州にいた人が増水で取り残されるというようなケースです。このような場合、「自然災害が起こりそうだと分かっている所に行った者が悪い」といった具合に被救助者に厳しい態度が見られるように思います。日本人には、事前に予測されうる危険度の大きさに比例して被害者への態度が厳しくなる性向があるように思われます。この性向を今回の事件にあてはめると、テロ組織の制圧区域に赴いたというのですから被害者への厳しさも最大級となり、イスラム国は天災と同じようなものだとされ無答責となってしまったのではないでしょうか。
また、今回の事件では武力の行使の「新三要件」を満たさないと思われるとのことで、政府が自衛隊を出動させることもありませんでした。政府が救助出来るのにしなかったのなら不作為の責任を問われるでしょうけれども、もともと出来ないことをしなかっただけなのですから、そんないわれはありません。となると上述のように加害者であるイスラム国に責任が無く、政府にも責任が無い以上、被害者の完全なる自己責任ということになってしまいます。そして、個人のレベルでも被害者に責任を被せて悪者にしてしまえば、同胞を助けられなかったということに対する後ろめたさを隠蔽することが出来ます。加害者よりも被害者を激しく責め立てる自己責任論は、まことに卑劣な責任逃れの言い訳だと思います。
ソウルメイト says:
2月 2, 2015
ご回答ありがとうございます。ご指摘の通り、「加害者よりも被害者を厳しく責め立てる自己責任論」は、相当性を欠くと思います。「被害者を激しく責め立てる」ことにより、本来、負うべき自責の念から免罪されようとして、なされる言説であるとすれば、おっしゃるように卑劣と言わねばならないでしょう。そして、そのような意味合いで自己責任論が語られる、ことも往々にしてありうることだとも思います。しかしながら、このことは、同朋が遭遇する危難について、共同体の一員は、どの程度、責任を感ずるべきか、あるいは、その危難に遭遇するに至った経緯や被遭遇者の行為や動機、態様、および共同体に及ぼす影響について個別ごとの評価を許すものだとも思います。一律に世界のいかなるところで発生したすべての邦人の危難をもれなく救わねばならない、というのは、一種の原理主義ではないでしょうか?国家あるいは、政府にはやろうと思ってできることもあれば、できないこともある。そして、できないことについて、同朋として忸怩たる思いを持ってしかるべきこともあれば、そうでないこともある、ということではないでしょうか?この度の不幸な事例において、過度に被害者を責め立てるのは、おそらく間違っているでしょう。しかし、だからといって、邦人の安全保障を世界大の規模とスケールでもれなく保障しようと主張しておられるように思われるものもあり、それは、妥当性を欠きはしないかと思う次第であります。ただし、佐藤さんは、本記事および再コメントにおいてそのような極端なご主張をなさっておられるわけではありませんので、佐藤さんを批判する意図はありません。また、この問題について、佐藤さんのさらなるご考察をご披露くだされば幸いに存じます。
taka says:
2月 2, 2015
佐藤さんの意見に賛同します。
私は自己責任論がどうにも自分の中で腹の中に落ちないものがありました。
イラク戦争の時に起きた人質事件の時も自己責任論があって私はそれについても納得していませんでした。
確かに危険地帯に行くことは問題があることだとは思いますが、犯罪をしに行ったわけでも何でもないのに、無実の人が犠牲になっているのになぜそうもいった人に責任を押し付けるのか、納得できませんでした。
詳しくは存じませんがその人の思想が少し偏っていたりしたとしてもその人は日本人であるわけですし、外国から見れば当然日本人だと認識すると思います。
日本という国は自分の国民を助けることができなかったとそういう風にとらえると思います。
もし国民が国を誇りに思うことがあるとすればたとえ一人のためでも全力をもって救出する、そういったことは当てはまるのではないかと思います。
対外的に考えたって国民一人を助けるためになりふりをかまわず行動を起こす国に手は出しづらくなると思いますし抑止力になると思います。
もちろんそういった行動が簡単にできるわけでもないしうまくいく可能性があるのかもわかりませんが、少なくとも誇るべき国とはたとえ一人のためにでも全力で手を差し伸べる国ではないかと思います。
ほとんど美意識の問題なのかもしれませんがそれでも私はそういった国であってほしいと願っています。
たぶん今国民一人一人の覚悟が試されているのではないかと感じております。
もしかしたら自分に不利なことになるかもしれない、しかしそれでも闘うという覚悟が求められていると思います。
私も戦争なんかしたくありませんし、闘いに行きたくはありません。
根性なしですし、敵前逃亡してしまうかもしれません。
しかしそれでも闘うという意思を示さなければ守れないものがあると思います。
西部さんがよくおっしゃる生き抜くために死ぬ気で戦うということを今問われていると思います。
ただ正直がっかりしたのは核武装だの日本国軍復活だの大日本帝国だの訴えているような人が自己責任論であったことです。
偉そうなことを言って自分が闘う覚悟はないんだなと、たとえ自分の思想や価値観とはそぐわなくとも同じ日本人なんだから助け合うというある意味武士道と呼べるような精神を重んじているわけではないんだとそれが露呈された気がします。
死にたくないけれど生き抜くために戦う、戦った結果がともわないかもしれないけれどそれでも闘う、そういった覚悟が問われていると思います。
須藤 says:
2月 2, 2015
うーむ。
なんなんだろうね、これ。
佐藤さんが他者の言論に対して、誠実に回答しているのは、誰の目から見ても明らか。
しかし、その姿勢を賞賛する意見は、とても少ない。
よく分からないなあ。
戦後保守にとって、誠実であることは、欠点なのか。
安直で、大衆受けする、無内容な言論が、国家レベルで量産されている弊害の表れか。
SATOKENJI says:
2月 2, 2015
ありがとうございます。
「愛国のパラドックス」の序論(第Ⅳ部)あたりに、この点をめぐる答えがあると思います。
ご覧下さい。
take4 says:
2月 2, 2015
はじめまして。ご指摘の「他人には『自己責任』と言い放ち、安全圏にいる自分は無責任」論が蔓延っていることはとても残念に思います。ただし、香田氏殺害事件の時に生じた「自己責任」論と今回の件とは区別して論議すべきではないでしょうか?後藤氏の場合、彼は事前に自己責任を旨とする声明を発してISILに入りましたが、彼の場合は彼に直接関係ないヨルダン人パイロットの命をISIL側が条件に出したことで、もはや彼の「自己責任」のレベルでは負いきれない「責任」が生じてしまったことが挙げられます。自分では「自己責任」と思って、責任を取ったつもりが、実はまったく取っていないことが今回明らかになったと思います。「責任」と言う言葉の意味を再び問い直したいと思っています。次に、「自己責任」という免罪符があれば何をしても構わないのか?と言うことです。池田小学校で多数の児童を殺傷した宅間守は精神鑑定で「責任」能力があると判定され、結局死刑執行となりましたが、「死刑」で責任を果たしたとは到底思えないのです。このあたりについて、佐藤さんのご意見をお伺いしたいと存じます。また、最近の傾向として、「自己責任」論の底流に新自由主義的な考えがあるような気がします。国家が個人に介入することを最小限に留めることを求める意味での「自己責任」を願う勢力が台頭しているのかもしれません。「10分300万の法外な報酬をもらっていること自体、それが命の対価であることを認めている契約なのであり、本人も望んでいないのに、政府が救出活動(不必要な介入)する必要はない。」と冷酷な見方をしている人さえいます。
くらえもん says:
2月 2, 2015
「愛国のパラドックス」を現在読んでいるところでございます(まだ、半分くらいのところですがおもしろいです)。
この本の中での議論に照らし合わせてみると、「テロリストの方が正しい可能性」「自分たちの方がテロリストである可能性」についても考慮する必要がありそうですね。
また、ユング心理学を参考にすると、殊更にテロリストのことを非難するのは、もしかすると自分の潜在意識に存在するテロリスト性(影)を認めたくないがためかもしれませんし。
問題を解決するためには、特定の意見に偏りすぎるのはよくないのかもしれません。
ルパン3号 says:
2月 2, 2015
はじめまして。佐藤さんのおっしゃるとおり、毅然とした対応をとりたいのであれば自己責任論など主張せず、「もし、人質を殺したら3倍にして返してやるぞ」と主張するくらいでちょうどいいと思います。ただし、自分も本音のところでは政府の退避勧告を無視して危険地帯へ行った人を助ける必要なんてないんじゃないかと思っています。冷酷だとは思いますが、そもそも我が国は、自国の国民が日本国内で北朝鮮に拉致されても武力で取り返そうとはしませんし、武力で取り返さないことを国民が是としてします。こんな状況で、退避勧告を無視して危険地帯へ行った人を助けてもらえると考えること自体おかしいです。
かえる法師 says:
2月 2, 2015
カインズさんに同意します。
例えば、夜の繁華街で婦女暴行事件等が発生すると「夜中に女性が一人
で出歩いているのが悪い」等と、「自己責任」が主張されることがあります。
こうした論を述べる人々は本当に女性に責任があると思っているのでしょう
か?実際には「自己責任」として相手の責任に帰することで「何もしない」
ことの言い訳に使われている印象を受けます。婦女暴行事件が起きたならば、
社会として「警備強化」、「犯人の捜索」、「被害者への支援」等、様々な
ことを行わなければなりません。しかし、「自己責任」なる言葉はこれらの
わずらわしさを一掃する力があります。なぜなら「自己責任」なので、我々
には関係がなく、従って対策する必要がないですから。
今回のイスラム国の事件において言えば、実の所、佐藤先生の論に完全
には同意できない点がありまして、自己責任論者は自分がテロと無関係であ
りたい、テロの標的になりたくないという意識に至ってすらいないであろう
と思われるということです。「クソコラ騒動」等が証左ですが、おそらく、
テロを現実の危機として認識してはいないでしょう。今回の殺害事件から
我々が考えなくてはならない教訓は山のようにありますし、国内の体制整備
も考えねばなりません。しかし、自己責任として現実逃避してしまえば、そ
うしたわずらわしさから逃れることができます。結局は現状を認識し、今
後に向けた議論を行うことからすらも逃避しているのではないでしょうか?
尤も考えなくとも分かることですが、いくら「自己責任」なる言葉でごま
かしたとしても現実は現実です。先の例ならば、自己責任を強調しても、
婦女を暴行した犯人は野放しのままでありますし、危険な夜の繁華街は残り
続けます。いずれ向き合わねばならないと思われます。
※念のため書き添えますが、私は武力で解決すべしと主張しているのではあ
りません。自己責任論は武力で解決するか交渉で解決するか等、議論を尽
くすべき事柄すらも無効にしてしまう恐ろしさがあるということです。
解決方法の是非について主張したいわけではありません。
プー太郎 says:
2月 3, 2015
今回の自己責任論はつまるところ、「国民を見捨てない国」ならぬ「同胞を見捨てる国民」という印象を受けました。
会社での世間話でもこの話題がでますが、自己責任とまで言わなくても、みんな他人事で自分の知ったことではない感じの人ばかりです。。。
「愛国のパラドックス」やっと手に入れましたので、週末まとめて読むのが楽しみです!
カンナ says:
2月 3, 2015
今回の人質事件の自己責任論に納得できず、こちらへ辿り着きました。
イラクの人質事件の時は、自己責任と思っていたので、今回の自己責任論に納得いかない事が、自分自身でもうまく消化できていませんでした。ただ、自己責任を問う方が、却って平和ボケした発想のように思えたのです。前時代的で、未熟とも感じました。
佐藤さんのお話や皆さんのコメントを読んで、少しこの思いに納得できました。自己責任論には「社会の一員」としての責任感が感じられないんだと思います。一見正論のようでいて、実は他罰的で自分に甘い考え方なんですね。以前の自分の未熟さにも思い至りました。
一個人の集まりが社会を作っている、という、よくある言葉の真意に気づくことができました。
これからの日本人は、この国をどんな国にしていきたいのか、もっとよく考える必要がある、という事なんですね。
ちっぽけな私一人の中ではありますが、大きな気づきに感謝すると共に、後藤さん方のご冥福をお祈り致します。
拙い文章で、お目汚し失礼致しました。
ソウルメイト says:
2月 3, 2015
>くらえもんさん
自分の中にもイスラム国の人たちに通底するような部分かあるのではないかと問うてみることは、大切であるとのご指摘は、まことに貴重な示唆に富むものであると思います。わたしは、イスラム国の連中にも相応の言い分と主張があるだろう、と思いますし、一概に彼らを全否定すれば済むという問題でもないと思います。かつて、大日本人帝国が中国および英米と戦端をひらくにいたったいきさつや歴史的背景等を考慮したとき、日本の開戦という行為が、まったく正当性のない犯罪行為として指弾されなくてはならないものなのかという問題と根っ子ではつながる問題なのではないかと思います。つまり、単純に正善悪二元論で片が付く話だとは思いません。佐藤さんは「愛国のパラドックス」の中で自分の中にも悪が潜んでいないかを問うてみることは必要なことである、と書いておられますが、そのような態度、思考こそ、高度でより成熟したものなのでははないかと思います。また、安直に自己責任論に飛びつく前に、自分の中にも人質となってしまった後藤氏らと同じものを共有しているのではないかと問うてみることもすごく大事だと思います。もし、自分の内面にも後藤さんたちのような部分を見いだすのだとしたなら、彼らをただ一方的に非難すれば済むという問題でもないこになるでしょう。自己責任論は、そこまで考えた上でのものでえることが望ましいと思います。
ベッラ says:
2月 4, 2015
イスラムテロは卑劣で残酷、許せませんし、大変恐ろしく、しばらくショックで寝込んでしまいました。
歴史を見るとこのような卑劣な殺戮が繰り返されているけれど、今、現実に起きていることは恐怖です。
この前の「討論」は、十分に説明する時間も与えられず、司会が何度も同じことを繰り返し発言、これは
他の「直言~」でも言っているし、あらゆるところで同じ言葉を繰り返している。
今回のことは、まだ佐藤先生のご意見を伺っていないし、そのような現状で佐藤先生が誤解を受けるといけないのでコメントを書きました。