「FRONT JAPAN 桜」、
いかがでしたか。
ちなみに昨日は
「闘論! 倒論! 討論! 追悼 西部邁と日本」
の収録も行われましたので、
ずっと桜にいました。
「追悼 西部邁と日本」、
例によって例のごとく
本質的なテーマが提起されるなり
突如として無関心になったり、全力で話をそらしたがったりする方が
パネリストの中に数名おられましたが、
誰がそのような精神的脆弱さ、
あるいは認知的不協和を露呈するかこそ
桜の討論の重要な見どころであることは
1月6日の記事
「新春キャスター討論を100倍楽しむ方法、または年貢を納めねばならない者は何に腹を立てるか」
および同7日の記事
「保守派もあまり多くの現実に耐えることはできない、または認知的不協和の楽しみ方」
において書いた通り。
ついでに精神的脆弱さ、
あるいは認知的不協和こそ、
西部先生が最も嫌ったものであることは言うまでもありません。
さあ、先生に軽蔑されるであろう者は誰だ?
それはともかく。
平昌冬季オリンピックが、昨日開幕しました。
私は開会式を途中からしか観ていないのですが、
報道によれば冒頭には
巨大な鐘がスタジアムに登場したとのこと。
この鐘、
「平和の鐘」と呼ばれている模様。
さらに鳩の形をした照明が夜空を照らすとか、
ジョン・レノンの名曲「イマジン」(※)が歌われるなど、
開会式全体が「平和」をモチーフに演出されました。
(※)歌詞に世界市民主義的なセンチメンタリズムが漂っていることをもって、
この曲を批判するのは思考の硬直と評さねばなりません。
歌の後半ではレノン自身、このビジョンが夢にすぎないと認めるからです。
ゴスペル曲の多くと同様、現実にはあり得ない理想を歌い上げることがポイントなのですよ。
早い話、
第二次朝鮮戦争は起こらないだろう
と言いたいわけですな。
しかるにここで思い出されるのが
20世紀前半のフランスの偉大な劇作家、
ジャン・ジロドゥが1935年に発表した戯曲
「トロイ戦争は起こらない」。
日本では長らく、
「トロイ戦争は起こらないだろう」という題で
劇団四季が上演してきました。
また「トロイ戦争は起こらない」として、
新国立劇場で上演されたこともあります。
トロイ戦争はギリシャ神話に登場する出来事ですが
1935年と言えば、
ヒトラーの台頭により、ヨーロッパに不穏な空気が漂いはじめた時期。
ついでにジロドゥは外交官でもありました。
つまり同作品のトロイ戦争とは
第二次大戦の比喩なのです。
そして重要なのは
「起こらない(だろう)」と題されているにもかかわらず
トロイ戦争は起きたこと。
戯曲のタイトルは反語なのです。
実際、ジロドゥはこの時期、
次のように語っていたとか。
戦争とは試験のようなものだ。
準備しておかなければ落第する。
次の試験に、われわれは合格しないだろう。
第二次大戦中、フランスはドイツに占領されますので
まさにそうなったことになります。
そして。
「トロイ戦争は起こらない」の第二幕には
こんな台詞があるのですよ。
戦争の前日、
紛争国の指導者が、
とあるのどかな村の、
湖畔のテラスか庭の片隅でふたりだけで会談する。
よくある話さ。
戦争はこの世で最も忌むべき禍いだということで、
意見が一致する。
ふたりはたがいに相手の気持ちを察し、
じっと見つめあう。
日光に体はほてり、
葡萄酒にほろりとなって、
相手の顔に憎しみを正当化するどんなしるしも見いだせない。
人間的な親しみを呼び覚ますしるししか目に映らない。
ふたりとも平和にひたり、
平和を望む気持ちでいっぱいだ。
そして、かたく握手をかわし、
兄弟のような気持ちで別れる。
その翌日、しかし戦争は起こるのだ。
二つの国民は会談から離れたところにいて、黙っている。
避けられぬものに勝つことを期待しているわけじゃない。
全権を与えたから、ふたりだけにしているのだ。
テラスから破局を眺める、これが指導者の特権なのさ。
(諏訪正訳)
今回の開会式にあたり
北朝鮮からは金永南・最高人民会議常任委員長や
金正恩の妹である
金与正・朝鮮労働党中央委員会第一副部長が韓国を訪問、
文在寅大統領と会談しています。
会談の前、文大統領は二人と笑顔で握手したとのこと。
この会談、
画期的などと言われていますが・・・
避けられぬものに勝つことを期待できるでしょうか?
第二次朝鮮戦争は起こらないでしょう。
ジロドゥが言ったような意味において。
しかしその翌日、戦争は起きるのです。
起こらないからこそ起きるのです。
北朝鮮の「微笑攻勢」なるものを警戒する主張もありますが
そう考えれば、これは的外れ。
攻勢も何も、
破局の直前、微笑とともにテラスで握手を交わすことこそ、
指導者の特権であり、責務なのです。
同一民族として
兄弟のような気持ちで別れようと
何が変わるわけでもないのですよ。
(↓)というわけで、戦後日本も滅ばないでしょう。詳細はこの4冊をどうぞ。
ではでは♬(^_^)♬
21 comments
momo says:
2月 10, 2018
パネリストの名前を見て、「あ、こいつらか」と思いました。討論はまだ拝見していないのでどなたかわかりませんが、
以前からニセ保守感を感じていたので、たぶんあの人らなんだと思います。
一般的に保守と呼ばれている有名人らを批判し、現実を見ろと偉そうに説教する人たち。俺たちは本当の保守だと思い込んでいる、私の一番嫌いなタイプのニセ保守のあの人ら。
特定できてしまいそうですが、大丈夫なんでしょうか。一応お付き合いがあるでしょうに。
でもはっきり言ってくださってスッキリしてます。いや、誰だかは言ってないですけどね。一人で納得してます。
SATOKENJI says:
2月 10, 2018
(↑)個人の感想です。
カインズ says:
2月 11, 2018
討論拝見しました。
佐藤さんが仰った、「西洋保守主義に対する吃音的否定となったのがあの死に方ではないか」という言葉が、一番のキーワードだったように思います。この点について、討論の最後の最後で水島氏と少しだけ行っていたような内容の討論がもっと早く行われていたら、現代日本において保守思想をどのように改善したらよいのか、保守思想における理論と感情(偏見)のバランスはといった議論が展開できただろうになぁと残念に感じました。さしずめ、「西部先生は、保守思想を語れない保守派にお怒りのようです」と言ったところでしょうか?
SATOKENJI says:
2月 11, 2018
某氏に「新・逃走論」でも書いて欲しいところです。
肝心なポイントにだけは触れないのが、もはや通例となりつつありますので。
拓三 says:
2月 11, 2018
西部進は答えを解っていた。
その答えを妨げる毒の存在も解っていた。
西部進は毒をもって毒を制す、を己の心体を犠牲にし戦い続けた偉大な言論人であります。
豆腐メンタル says:
2月 11, 2018
早くも今年の山場が来たかのような佐藤先生の迫力が稲光りのように感じられる回でした。
また、上座は某氏より藤井先生が相応しい。←個人の感想です
冒頭、「自裁も自殺である」という佐藤先生のご発言がありました。
“西部先生の自裁”という表現に対する私の微細な違和感に稲妻が。
佐藤先生も繰り返されるように西部先生は偉大です。私には測りかねるほどです。しかし同時に、西部先生を祭り上げた瞬間、思想を自分のこととして引き受けないことになり得る。
これは西部先生の実存が、思想のパラドックスに肉薄している故かと思われます。信仰にも同じことが言えるでしょう。偉大だからといって、祭り上げても割り切れないものは割り切れない。
また終盤、「表現者クライテリオンを縛る死でもあった」という意味の佐藤先生のご発言がありました。
西部先生のご発言である、「やってきたことは無駄だった」「ジャップ」の背景には、日本のことを日本のこととして引き受けているとは言えない日本人の現状があると思います。自分のことを自分のこととして引き受けない大人がいったい何を保守できるというのか。
言論人、評論家、運動家、政治家、学者。保守主義者。意見の違い、手法の違いはあって良い。ただし、言論に関わる者は、その影響力故に試されている。まさに西部翁の始まり「こういうことも言えませんか。。」なのですね。佐藤先生は西部先生の実存を通してそのことを再考する目印を残されました。
政治家には政治家の試され方があるでしょう。運動家も評論家も同様です。
しかるに、西部先生を饒舌に語る某氏につける薬はあるのでしょうか。あなたは自分以外の何かに試されているのか。
「西部邁と日本」と大風呂敷を広げ、”自分こそが日本(保守)である”と信じて疑わないマッチョイズムと安易な合理性は、現在日本の病そのものだと言わざるを得ない。
このことはsayaさんの”恋愛出来ない回”にも通底しております。
いつも長々と失礼して申し訳ありません。
GUY FAWKES says:
2月 11, 2018
>佐藤先生も繰り返されるように西部先生は偉大です。私には測りかねるほどです。しかし同時に、西部先生を祭り上げた瞬間、思想を自分のこととして引き受けないことになり得る。
>これは西部先生の実存が、思想のパラドックスに肉薄している故かと思われます。信仰にも同じことが言えるでしょう。偉大だからといって、祭り上げても割り切れないものは割り切れない。
思想を理解すること、とその人を祭り上げることに決定的な違いがあるとすれば
恩師である存在を超越してその思想に挑戦できるかどうかではないでしょうか、即ちある種の『親殺し』です。
思うに、饒舌逞しい某氏と某司会者は無意識の権威主義の染まっているとしかお見受けできません。
死者の御霊を冒涜する誤解を承知で申し上げれば、西部先生の最期はどう取り繕うと「自己矛盾」そのものです。
向き合うつもりもないのであれば保守は左翼・リベラル以上の思考停止に見舞われていると受け取られざるを得ないでしょう。
いつもの様に横から失礼しました、件の討論については藤井総統の情熱と浜崎さんの感性に一抹の望みを持っております。
豆腐メンタル says:
2月 13, 2018
2月も半ばに差し掛かり刻の早さにひたすら慄いております。さて。。
特に一般論として、言論や思想が誰かの受け売りや猿真似であるなら認められません。つまり独創が重要です。ただし、完全に個人が編み出した独創でもない。常に誰かの言論や思想の再編集とも言えます。
このことは、歴史や連続性を尊重する保守思想の背骨であり、また同時に、言論や思想のパラドックスと言えると思います。
GUYさんには釈迦に説法であります。
私はこのことを絵の鑑賞に例えるのが好きです。
絵自体から何を感じるのか、という重要なポイントがあります。
一方で、絵を主観のみならず客観(普遍?技術?)的により深く理解(味わう)ために、その絵がどういう成り立ちなのかなどの、絵にまつわる要素も重要ポイントです。
つまり絵の鑑賞とは、閉じており開いているというパラドックスの要素を持っていることになります。
そして絵の良し悪しを語る場合、パラドックスにどう斬りこむのかで様々に変化します。
「理由など関係なく素晴らしい」という独善でもいまひとつ。
「素晴らしさが分かるのが素晴らしい」という権威主義でもいまひとつ。
「白黒つけてやろう」とジャッジしたくなると”お祭り”が待っている。
閉じており開いているママ斬りこんでこそ優れた鑑賞になり得るのでは無いでしょうか。
言葉遊びにしたくないのですが、斬りこみに必要なのは解説や説明ではなく、”解釈”かと思われます。
超克という言葉がありますが、ある意味の親殺しですね。
この超克も、解説や説明ではなすことが出来ない。
唯一、ジャッジではない解釈によってのみ可能だと考えています。
いつも”こねくり回して”すいません。能力の限界なんです。
ちなみに某氏も禅の解釈がお好きですね。そういう真面目なところは結構好きです。場を弁えているのであれば。笑
Nサトウ says:
2月 11, 2018
「表現者クライテリオンを縛る死でもあった」
↑
う~ん、これってどういう意味なんだろ?
抽象的な物言いに加えて発言時の怖い表情・・佐藤さんの真意が解せないです。
何方か補足説明できる方御教授下さいませ。
lemon says:
2月 12, 2018
元々は西部先生の表現者だった(顧問という形において)のと、現在の編集に関わる者達がその弟子であるという事から、
西部先生の死によって、彼のこれまで提示してきた社会や経済、政治にまつわる具体的な考えを継承しよう!等という気分や雰囲気に飲み込まれてしまうという事ではないでしょうか。
でもそれは先生のこれまで一貫してきた姿勢たる『懐疑の精神』を止める事を意味し、
彼らの表現者クライテリオンにおける今後の言論や思想というものが、どこまで行っても『西部的な言論・思想』に留まってしまう。
それはきっと西部先生が忌み嫌うような類のものだし、逆に先生の何かしらを継承するといった事に反する行為に繋がるからだと思われます。
また、佐藤さんの表情については僕の憶測ですが、終始厳しい表情を崩さなかったのは(と思ったのは)
要するに今回の討論のテーマは西部邁についてだ。師匠の死だからといって、安直に思い出に耽ったり偉大な方だったと褒め称えるそれで終いにするような特別扱いはあってはならない、他のテーマが討論の時と同様、真っ直ぐに考察・主張すべきだ。それが彼への最大の哀悼だろう。そうでなければ、彼の意思を裏切ることになる…..
といったところでしょうか(※個人の感想です)
Othello says:
2月 12, 2018
初めて投稿させていただきます。
今回の討論を拝聴しまして、「表現者クライテリオンと西部先生の自殺の関係」について、私もNサトウさんに近い感想を持ちました。
まず、「表現者クライテリオンを縛る死であった」ということに関して。
これは、仮に、西部先生の自殺が「縛る」ものであったとしても、それを引き継ぐ側が「縛られない」という覚悟を持ち続けていれば、その縛りを解くことは十分可能ということではないでしょうか。
現に、『表現者クライテリオン』の編集委員の藤井聡さん、浜崎洋介さんが、それぞれのおっしゃり方で「自分たちは縛られない」と強く主張されていたように思います。
次に、「自分の自殺が表現者クライテリオンを縛ることになるかについての西部先生の「配慮」の問題」に関して。
西部先生には、まず、藤井さんや浜崎さんに対するそのような信頼はゆるぎなくあったのではないでしょうか。
つまり、「西部邁と表現者クライテリオン」は「加藤道夫と劇団四季」のようにはならない、と。
その上で、「彼らは縛られることはないだろうが、彼らが自分の死で窮屈な振る舞いをせざるを得ないような状況が生じるリスクは可能な限り軽減させておこう」と、「配慮」されたのではないでしょうか。
そう考える点で、『表現者クライテリオン』との関係性で捉えた時の西部先生の自殺のタイミングの意味についての自分の受け止め方は藤井さんと浜崎さんの受け止め方に近いです。
討論全体を拝聴しての感想を記します。
(ここからは、「自殺のタイミング」についての解釈の問題はあえて外します。)
佐藤先生が西部先生の「生き様」(あえてこの言葉を使います)を敬愛されているが故に、西部先生の自殺という「死に様」に対して疑義を提出されたこと。
私には、とても有難いことでした。
と言いますのも、『死生論』以来、西部先生の自殺論について考えてきましたが、西部先生に起られてしまうことは承知で、私はどうしても、敬愛する西部先生にはずっと生きていてほしい、と思ってきました。
西部先生の死生論の論理には納得しつつ、自分の西部先生に対する「センチメント」が、それに追いついていかない、という感じをずっと持っていました。
そうして、『死生論』の初読から、二十年近くの月日が流れました。
西部先生が自殺されたと知った時、私もやはり、「ああついにこの日が来てしまった」というのが第一の感慨でした。
翌日も翌々日も、雪の風景を眺めながら、西部先生のことを考えていました。
その後、西部先生の思想は知らないけれど私が先生を敬愛をしていることは知っている親族との電話で、西部先生の死が話題となり、西部先生の死について自分の解釈を説明しながら、「多摩川に入っていくとき、どんなに冷たかったろうね」と口にした途端に、猛烈に悲しくなり、電話口で嗚咽してしまいました。
やはり、西部先生に生きていてほしかった、と痛切に感じたからです。
ただ、西部先生の自殺から、違うメッセージも受け取っている自分もいました。
『死生論』の初読以来、二十年の月日が流れ、まだ年配というには早いにしても、私もそれなりに年を取りました。
いろいろ病気がちになって、死の不安と恐怖に苛まれることが多くなってきました。
そうなってくると、西部先生のおっしゃっていた「死の準備」のことが、いやがうえにも想起されてきました。
また、西部先生の死に顔が穏やかなものであったということも知り、先生が「死んでみせる」を敢然と、でも穏やかに実行されたことに、死への向き合い方を教えていただいたようにも思いました。
福田恒存さんが西部先生に「死ぬのは怖いことではないんだよ」と言われたというエピソードがあります。
私はそれと同じメッセージを、西部先生の自殺から受けとめたように感じています。
論理ではなくて、「センチメント」で、先生の死生論を受けとめることのできた瞬間でもありました。
佐藤先生の西部先生の自殺に対する疑義は、西部先生の死生論の論理に対する私の「センチメント」の半分を代弁してくださったように思います。
と同時に、西部先生の自殺に否定し去ることのできない、積極的な意味を感じている「センチメント」が自分の中に確かに存在していることも感じています。
これは、「センチメント」ですから明晰さが欠如したものであることは否めません。
私自身、これから、西部先生の死生論の論理が私の「センチメント」にもたらした分裂をつなぐ「論理」を模索していかなければならない、と思っています。
佐藤先生がおっしゃった、西部先生が最期にわれわれにつきつけたパラドックス。
これについては、西部先生の三島論である「明晰さの欠如」を、それが文庫化された際に書き足された部分も含めて、二度、三度読み返し、考えていきたいと思っています。
佐藤先生が西部先生の死を「改めて父親を失ったよう」と受け止められたことの重さに思いを馳せつつ、初めて投稿させていただきました。
佐藤先生、引き続き先生の発信された思想のことばを追いかけていきたいと思っております。
どうかお体お大事にしてください。
ogd says:
2月 11, 2018
討論番組を観たあとボーっとしていたら、西部先生とゴジラが重なってみえてきまして。
西部先生はゴジラみたいな側面もあったのかな・・と。
マゼラン星人二代目 says:
2月 12, 2018
一報に触れたとき感じたことが、やっと、言葉になりましたので記します:
「何で待てなかったんだろう。三十年も四十年も先のことでもあるまいに」
ただ、それだけです。
>何で待てなかったんだろう
多分、それこそが問題なのでしょう。が、件の番組に答えを求めるべくもないことは、タイトルの仰々しさから予感し冒頭三分くらいで確信しました。そして、視つづける気が失せました。
曰く、「とうとうやったか」
曰く、「大した驚きはない」
説明されるべきことが前提とされており、これでは何もわからない。知解に先だって信仰がなくてはならず、自明な事柄ゆえ容喙は許されないらしい。ばかには見えない錦糸とでも言おうか、敷居が高くてとてもついて行けない。
>タイトルの仰々しさ
まるで桂冠言論人でもあるかのような持ちあげよう。当の日本(人)に(そして明仁さんにも)謀ることもなく、実に独断的。
仮に、当代きってのS級知識人であることは認めるとしても、それでは鶴見俊輔なり吉本隆明なりがそうではなかったとでも言うのか。(丸山眞男は古すぎるから措く)
そのように考えたとき、「どうせ、身内びいきの美辞麗句、信仰告白のオンパレードでしょ」となりました。
北陸の読者 says:
2月 12, 2018
西部先生がチェスタトンを高く評価していたこととチェスタトンが自殺を否定していたこととは、矛盾しているというよりはむしろ、たんに先生はチェスタトンの自殺についての見解に不同意だったというだけのことだと思います。
西部先生はキリスト教がある時期から自殺を禁じるようになったことについて『生死論』の中で論じていました。
そもそも西部先生は自分はクリスチャンではないと言っておられたので、先生がチェスタトンやキリスト教の教理を全面的に支持するいわれはないのではないかと思いましたがいかがでしょうか。
また西部先生は『生死論』の中で自殺という言葉も使っていました。
SATOKENJI says:
2月 12, 2018
保守主義は
1)人間の理性(つまり判断力)の限界を自覚し
2)社会や歴史の連続性を尊重する
思想です。
しかるに自殺は
自分の判断に基づいて、自分の生命の連続性を否定する行為。
そしてチェスタトンの言うとおり、
これは本人の視点に立てば
自分の判断に基づいて、目の前の世界の連続性を否定する行為
となります。
西部先生の死によって
西部家や日本社会の連続性が強化されたのなら別ですが
そうでないかぎり
キリスト教信仰とは関係なく、
この最期は保守の発想に反しているのではないかと思うのです。
玉田泰 says:
2月 13, 2018
先生、手厳しいですね。
でも仰る通りだと思います。いえ、僕にはまだ、判りません。
追悼番組を拝見してから、じっくりと考えたいと思います。
豆腐メンタル says:
2月 13, 2018
横から失礼いたします。
佐藤先生、どうかお教えください。
保守主義者の持つべき生命観として、個人の命または生命に対しても、連続性を重要視すべし。
ここまでは理解出来ます。では。。
ある保守主義者の命または生命は、連続性が重要なので、自らの裁量の範疇あるととらえてはならない。
ということなのでしょうか。
仮にそうとすれば、命または生命が観念に限定されたように思えてきます。
死と同じく生も、本来的にアンビバレントである、と私は考えております。つまり割り切ることができないものと考えております。
また、保守の思想には実際も重要であるし、また科学も重要であると考えてみると、観念の限定を受け入れることが難しいのです。
プラグマティックな死と生の在り方との関係性、ということになるのでしょうか。。どう考えるかをご教授ください。
北陸の読者 says:
2月 14, 2018
自分の死期が近づいてきたとひしひしと感じられたという感覚も、確かに勘違いの可能性はあるのですが、おおよそ正しそうだと思われる考えにしたがって決断をすることは、人間の理性の限界を自覚することと矛盾しないと思います。
西部先生は自分の不道徳ないしはニヒリズムの根を断つために自殺するという日本の先人の例に従ったので、この点では西部先生の死に方は日本の歴史の連続性を尊重する死に方だったのではないでしょうか。
北陸の読者 says:
2月 12, 2018
誤字がありました。失礼m(_ _)m
× 生死論
○ 死生論
玉田泰 says:
2月 13, 2018
「Front Japan 桜」拝見しました。初回、先生が神経質そうに(僕の勝手な主観です)筆記用具を触られていた頃と比べて、番組を掌握されているなと感じました。内容も、幾つかのメディアで展開されていた話題でしたが、解説がよりこなれていて、とても伝わってくると感じました。女性キャスターにまとめさせながら、話題を更に豊かに広げて行く手腕にも感心しきりです。また、次回が楽しみです。
「第二次朝鮮戦争はおこらないでしょう」
そうですね。以前買った、非常食用缶詰を粗方食べてしまいました(笑)。
また、買い足しておかないと。
Mr.T says:
3月 6, 2018
南北首脳会談 4月末開催で合意=北「米と非核化対話の用意」
http://japanese.yonhapnews.co.kr/northkorea/2018/03/06/0300000000AJP20180306006200882.HTML
冗談?米大統領「北朝鮮と対話するだろう」
http://www.news24.jp/articles/2018/03/05/10387178.html
※南北朝鮮面会の動画
https://www.youtube.com/watch?v=g6xrD1l_Mcw
アコースティック俗哲学:北朝鮮
https://www.youtube.com/watch?v=RondcpHbyyw
ロシア、核使用に即報復=プーチン氏が教書演説
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018030100746
※米保守系サイトが一方的に排除される危機的な現状
https://www.jimakudaio.com/criminal-facebook-shut-down-gp
トランプ「米朝は会うことになるだろう」…対話可能性に積極表現
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/29934.html
「沖縄に核」日本容認
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-03-05/2018030501_01_1.html
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我が国祖国日本における財政再建の問題(PB:プライマリーバランス)
こんな事を本気で心配する知識人が実は有害で国益を害しており
日本の右派の中には未だに米露が中国を押さえ込むなどと言う
(実際にはEUと日本を軍事拠点にユーラシア侵略を狙う布陣)
現実の世界を無視した話を本気で信じる人達も多いですね
(参考:https://sptnkne.ws/gSxz)
北は米韓合同軍事演習の韓国の立場に理解を示したようで
(非核化に関しても北は柔軟に対話に応じる姿勢を示したと)
南北朝鮮首脳会談は4月末に板門店で開催する事が決まり
核とミサイルに関しては一時停止が合意された模様ですね
制裁が露朝の強靭さの源であると言えますけど
北の平壌での米朝首脳会談の道が切り開かれ
米朝による前提条件なしの会談さえまとまれば
朝鮮戦争終結に向けて大きく動き出すでしょう
(伊藤貫さんによればトランプは非戦派だとか)
マキャベリ的には権力者の間で信義が守られるのは力によってのみですよね
(一般的には法律・契約書・協定が信義を守るのに役立つんでしょうけれども)
ロシアと友好国への攻撃はICBM(RS-28)Sarmat&組み込まれたFOBS等々による報復を警告しており
中露軍がいる事もあり米軍が北朝鮮に勝てる見込みなど無く米空母も中国の南海で漂流中の模様
F3の夢は破れF2後継機の国産は断念し
親米の国賊朝日と同じく陰の政府である
ディープステートのアメポチ防衛省として
国際共同開発検討で軍産複合体と協調
佐藤さんの2020年日本消滅とダブるような気も致しますが
今回の東京五輪は前回の戦後復興の象徴とは異なって
色々な意味で日本沈没の象徴となる事が予想されます
尚TV業界で異例の大ヒットを記録したと言う
「CRISIS」&「99.9」にて一般的なイメージは
司法界隈の闇が伝わることになるかしら
親米国賊朝日によるスラップ訴訟が
一つの分岐点になるかも知れません
マスゴミ批判をしつつMSMの言動をなぞる主流派層よりも
MSMの報道には目もくれず過程をみながら物事を考える
そんな層が増えてきつつあること等には希望を感じます