5月23日の記事

「【新訳】消費増税の省察」に、

福岡ワマツさんから以下のコメントがありました。

 

最近メディアから伝わる情報に接する際に、次の言葉をよく想起します。

それは『羊頭狗肉』。

この言葉は、「店舗の看板に羊頭を掲げていながら、実際には犬肉を売る」

という本来の意味が転じて、

「見せかけは立派だが実際は違う」という意味を表し、

「ごまかしの喩え」として使われることで有名ですね。

 

 どんな時に想起するかというと、

 ○ たゆまぬ「努力」で「低燃費」を実現した燃費データ改ざん企業、

 ○ 「財政健全化のため」には国民経済の不健全化を容認する増税論者、

 ○ 「保守派」を自認する構造改革派、

 ○ 米軍基地を必要とする「基地反対」運動、

などについて伝える報道に接する時です。

以前には食肉の偽装(詐欺)もありましたね。

 

そこで1つの疑問が。

もし仮に、精肉店『羊頭狗肉』で買ってしまった肉を、

① 最後まで気づかず、羊肉だと信じて疑わず美味しく食べる

② 途中で違和感に気づき、美味しい犬肉として食べる。

という2つの場合を設定して比べたならば、

果たしてどちらが精神衛生に良いのでしょうか。

 

まぁ、「調味料で味を整えれば(ごまかせば)、

どちらにせよ美味しく食べられてハッピーなんだよ。

どうせたいして違いなんて分からねえだろ。」

との店側の意見はあるんでしょうが(^^)

 

その心は、

「あんたら(客側、大衆)に肉(実体)を吟味する意志と能力があるのか(いや、ないんだろ)。」

ということでしょう。

いや~、まことに耳が痛いですな(^^)

 

これは深遠な問題です。

 

まずここには、

怒ることは精神衛生に良いのか?

というポイントがある。

 

良くないのであれば、

最後まで羊肉だと信じて食べる①のほうが

精神衛生に良いことになるでしょう。

 

しかしですな、

②のケースでも

騙された!! と怒ることは想定されていません。

 

となるとこちらも、

べつに精神衛生に悪いわけではないのでは?

 

たとえばここに

③犬の肉であることに気づいて、怒って店の人間とケンカする。

という選択肢を入れると

なかなか答えは難しくなってきます。

 

知らぬが仏は真の仏か?

という問題が発生しますからね。

 

ついでにこの場合、

とりあえず肉は美味である

ことが前提になっていますが、

現実にはそうとも限りません。

 

というか、

まずい犬の肉を売るような連中こそ、

羊肉と称することで、お客の不満をそらそうとする傾向が強いのではないでしょうか?

 

本当はまずいなあと思っているにの、

「いやいや、羊肉なんだから、これは美味に違いないんだ」

と言い聞かせて食べていたところ、

じつは犬の肉だったことが分かった!

 

さあ、この場合はどうなるか。

こういう店だと文句をつけられても

「第三者に精査してもらうから」などと言って

謝罪しないかも知れませんよ。

 

店に火をつけてやる!!

と、なりそうなものですが・・・

 

人によっては、騙されていたことを受け入れたくないばかりに

犬の肉だったことが明らかになっても

「そんなことはない、自分が食べたのは本当に羊の肉だった!」

と、逆に店側をかばうかも知れません。

 

むろんこれはBAD(ビー・エー・ディー)、

ないしキッチュにほかなりませんが

サギというやつ、

往々にして騙される側も

こんな形で実質的に加担していたりするのです。

 

知らぬが仏だからと言って、知ったら仏でなくなるとは限りません。

無知から自己欺瞞へと移行する形で

仏でありつづける場合も多い。

 

ただし、そんな仏を果たして真の仏と呼べるか?

問題の根は深いのでありました。

ではでは♬(^_^)♬