昨日の記事

「『あの戦争』と自己正当化」では

昭和前半期の戦争を取り上げる際、

イデオロギーの左右を問わず

「あの戦争を取り上げる自分」の正当性をアピールしなければ!

という心理が働くように見えることをお話ししました。

 

これは言葉を換えれば

あの戦争を「正しい視点」から描かなければ!

という強迫観念じみた思い込みが見られる

となるでしょう。

 

いや、もちろん

「あの戦争」でなろうとなかろうと

物事を「間違った視点」から描きたがる人は普通いません。

 

しかし「正しい視点」とは

取り上げる本人が「これこそ正しい」と心から信じられるもの、

つまりは

「どんな反対意見があろうと、オレはこの視点が正しいと信じる」と断言できるものでなければならない。

 

主体性こそ、「正しい視点」の基礎なのです。

 

しかるに問題は

「あの戦争」を描く際に、作り手の意識する「正しい視点」なるものが

そのような主体性を伴っておらず、

「世間的に『正しい』と認められている(と思われる)もの」

に終始しがちなこと。

 

要するに主体性が欠落しているわけですが、

このような腰の引けた態度こそ、

作品をつまらなくする大きな要因です。

 

作り手が自信をもって自分の視点を提示しないで、

どうして面白くなるものか!

 

例を挙げましょう。

1953年、「雲流るる果てに」という映画がつくられました。

若き特攻隊員たちの姿を描いたもの。

 

ところが大島渚さんが紹介した

同作品の関係者座談会には、こんなやりとりがあるのですよ。

 

まずは俳優の岡田英次さんが、

日本人が今一番望んでいること、これを訴えたいと思っているもの、

つまり戦争反対ということを、幾度でも繰り返しとりあげようということですよ。

と述べる。

 

で、撮影スタッフの小林郁夫さんが、こう続ける。

今までの反戦映画というものは、

多かれ少なかれ戦争というものに疑問を持っていた人達を中心に描いていたが、

この映画で扱われる人物は、

戦争を若い純真な頭で肯定して、

自分の身を捨てることが親兄弟や妻子のためにも・・・と思い込んでいた青年たちである。(中略)

それをそのままに描きたい。

 

すると神田隆さんという俳優がこう言うのです。

そういう意味では、今までの反戦映画と違って、

非常に危険な要素を持っているわけだ。

われわれは、この映画が好戦映画にならないよう努力している。

(大島渚「体験的戦後映像論」、156〜157ページ)

 

1953年の日本では

戦時中、「親兄弟や妻子のためにも命を捨てて戦う」と決意していた若者がいた

という当たり前のことを認めただけで

危険な好戦映画と見なされたらしいのです!!

 

今となってはアホらしい話ですが、

ポイントはこの先。

そういう「周囲の目」を気にしてしまう人々が、

良い映画、面白い映画をつくれるでしょうか?

 

これが問題なのですよ。

ではでは♬(^_^)♬