チャンネル桜「闘論! 倒論! 討論!」

「日本の良さって何だ?」

いかがでしたか。

 

今日は番組で提示した論点をちょっと補足します。

谷崎潤一郎さんの「細雪」と、

赤川次郎さんの「ふたり」を例に出して論じた

日本の小説では、作者と登場人物(あるいは作品世界)との境界が曖昧という点について。

 

水島社長がおっしゃった通り、

同じ特徴は20世紀の欧米文学にも見られます。

トーマス・マンもそうですが、

ジェイムズ・ジョイスとか、

ウィリアム・S・バロウズとか、

マルグリット・デュラスとかになると、

もっとすごくなる。

 

しかし欧米の作家にとって、

自分と登場人物、あるいは作品世界との境界が曖昧なのは、

少々大げさに言えば、

小説とは何かという基本前提を揺るがしかねない一大事なんですね。

 

だからというわけでもありませんが、

上記の作家(名前を太字にした人々)の作品には、そろって難解という特徴があります。

 

ところが日本の場合、

当の曖昧さが、もっとのびやかというか、自然体なのです。

 

「細雪」にしても「ふたり」にしても、

難解ということは一切ありません。

むろん私は、どちらの作品も好きです。

 

さて。

ふたたび社長の発言を引用すれば、

作者と登場人物、あるいは作品世界の境界が明確でありうるという発想は、

いわゆる「近代的自我」のあり方と深く関連しています。

 

その意味で日本の小説には、

近代的自我が十分に反映されていない傾向がある。

 

ちなみに福田恆存さんも、

「純文学」「大衆文学」の違いについて、

前者は個人主義を通過した後のもので

後者は個人主義以前のもの

という趣旨の区分をしたことがあります。

 

事実、わが国のインテリ(の多く)は、

このような視点から

日本の文化はまだまだ前近代的だ、などと嘆いてきたのです。

 

しかし20世紀以後の世界の歴史が

「近代」なるものの限界を多分に露呈していることを思えば、

このような日本の小説のあり方は

21世紀の方向性を暗示したものとも取れる。

 

どちらが正しいか?

これは問題の立て方が間違っています。

 

自己と他者、あるいは自己と世界の境界が曖昧であることには、

近代にすら達していない要素と

近代を超越しうる要素の両方があるだけのこと。

 

前者にのみこだわるのは欧米コンプレックスで、

後者にのみこだわるのは自己満足的なお国自慢でしょう。

 

日本と「近代」の間には、

良くも悪くもそういう微妙な関係がある点を踏まえて

国や社会をベストの状態に保ってゆく、

これが必要なのです。

 

この点もまた、「愛国のパラドックス」の一つですね。

 

 

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最後に、打ち上げの席での Saya さんをどうぞ。

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ではでは♬(^_^)♬