いよいよ本日の08:00より、
発売記念キャンペーンが始まります!
Amazonで本書をご予約・ご購入のうえ、
特設ページから申し込みをしていただいた方に、著者特典をプレゼントいたします!
申し込みには Amazon から送られる注文番号が必要ですが、
キャンペーン開始前に Amazonでご予約・ご購入された方もご参加いただけます。
お問い合わせは、『戦後脱却で、日本は「右傾化」して属国化する』キャンペーン事務局
(tokuten@jasper.dti.ne.jp)までどうぞ。
というわけで、キャンペーン期間中は
今回の本と関連があるものの
本には盛り込めなかった話題を取り上げてゆきます。
なおこれらの話題は、
キャンペーンの著者特典にも出てきませんので、念のため。
本日の話題は「キッチュ」。
2月27日の記事でもご紹介したとおり
戦後脱却の試みがなぜ、「あの国」にたいするいっそうの属国化をもたらすのか
という点を理解するうえで
この概念は欠かせません。
しかるにキッチュは、
なかなかに複雑な意味合いを持った言葉。
なにせ、以下に挙げるものがすべて
キッチュを媒介に結びついてしまうのです。
ヤーコフ・スターリン
(ソ連の独裁的指導者スターリンの息子。父の本当の姓にちなんで、ヤーコフ・ジュガシヴィリとも呼ばれる。第二次大戦中に死亡)
「存在の耐えられない軽さ」
(チェコ出身の作家、ミラン・クンデラの世界的ベストセラー小説。フィリップ・カウフマン監督による映画版も優れていたが、原作はそれ以上の傑作)
左翼・リベラル系の某政治学者
(現総理について「お前は人間じゃない! たたき斬ってやる!」と叫んだことで知られる人物)
郵政改革を強引に推し進めた某総理大臣
(自分が総裁を務める政党をぶっ壊すと宣言したことでも有名)
北朝鮮の文化
菅義偉官房長官
19世紀後半におけるミュンヘンの美術商
・・・これらは全部
本に登場しますが
ひとつ、盛り込めなかったものがある。
ミュージカル「エリザベート」。
1992年にウィーンで初演されたヒット作品で
日本では宝塚歌劇団と東宝によって
2つのバージョンで上演されています。
没落しつつある19世紀後半のオーストリア帝国を舞台に、
伝統と近代のはざまで葛藤しつつ
最後には暗殺された皇后エリザベートの生涯を描いたもの。
夫である皇帝フランツ・ヨーゼフ、
息子の皇太子ルドルフも重要な役割を果たします。
このミュージカルの二幕冒頭に
「キッチュ」という曲が出てくるのですよ。
そして台本・作詞のミヒャエル・クンツェは、
この言葉の意味を正しく踏まえて使っている。
「キッチュ」を歌うのは
このミュージカルのナレーターである
ルイジ・ルキーニという人物ですが、
彼は当時のウィーンで売られていた
ロイヤルファミリー関連グッズをいろいろ紹介しつつ
こんなものはキッチュにすぎないと断じるのです。
なぜキッチュなのか?
このロイヤルファミリー、じつは家庭崩壊状態だったのです。
ところが関連グッズは
そんなことはまるでお構いなしに、
愛情あふれる理想の家族のごときイメージづくりに徹している。
これを指して、ルキーニは「キッチュ!」と言うのです。
そして歌は、こんな趣旨の詞で締めくくられる。
人はみな、聞きたいことしか聞こうとはしない。
だから年月が経ったあと
美とクソのせめぎあいから残るものは何か?
夢と現実のせめぎあいから残るものは何か?
ずばりキッチュだけなのさ!
キッチュ!
本を読んで下さった方なら
「美とクソのせめぎあい」
「夢と現実のせめぎあい」
というフレーズにこめられた
深い意味がお分かりになるでしょう。
クンツェさん、やるものです。
なおここで紹介した詞は
原詞(ドイツ語)の英語訳をもとにしていますので
日本で上演されている歌詞とは異なります。
ご了承ください。
ではでは♬(^_^)♬
2 comments
KAZU says:
3月 2, 2016
こんにちは。
『戦後脱却にて、日本は「右傾化」して属国化する』、早速本日帰りに書店により購入させていただこうと思います。
さて、先日来、原田伊織氏著「明治維新という過ち」および「官賊と幕臣」、ならびに安部龍太郎氏の「維新の肖像」という小説を立て続けに拝読いたしました。
巷間言われているように、徳川幕府は無能でもなんでもなく、それまでの政治、制度、文化、生活・・国の形を維持しつつ、襲いかかる西欧列強とどう渡りをつけていくかについて真剣に考え且つ実行していたかが克明に記されていました。一方、いわゆる維新の元老たちは殆ど何も考えず天誅と叫んでグレートリセットを目指していた・・
勝てば官軍、その様なテロリストが明治維新を機に「正義」になってしまったんですね。
ねじれ、は明治から始まっていたのではないかと感じた次第です。
現総理も長州出身、イカレタ前大阪市長は維新を叫ぶ・・なんか意味深な気がします。
フルート says:
3月 2, 2016
『戦後脱却で、日本は「右傾化」して属国化する』読了できました!
過去からの繋がりとしてある今の日本の政治状況の混乱の全容・言論の混乱の全容がはっきり判りました!でも頭はくたくたになってしまいました(笑)しかし充実感がすごくあります。自分の考え方に潜んでいた思考の制限だったり混乱を知る事ができてすごく良かったです。
・・ただどうしても自分の考え方の癖の様なものを私は簡単には解消できなくて・・、私は否定と否認について、次の様な事を考えました。
私はLITERAの酒井まど氏が書いた記事『元少年Aは本当に「凶暴」で「更生していない」のか?「週刊文春」の直撃記事は妄想と煽りだらけだった』を26日に読んだ時、この記事の変な点への疑問やいろいろな反論が浮かんで、「本当に恐ろしいのはAが近くに生活していることじゃない。Aを排除する社会のほうだろう。」という結論部を含んだ酒井氏の論考に対して、私は、この酒井氏の納得される世界観が成り立つ背景には、<過去からのまなざしの排除>が必須条件として存在しているのでは・・という疑問に行き着きました。そして死者からのまなざしを含んだこの過去からのまなざしの感覚の乏しさと今の{戦後民主主義}の成り立ち方に、一つの関係性を見つけた気がしました。
<過去からのまなざし>についての説明なのですが・・例えば、今自分が興味を持っているどこかの外国があって、その国の人が日本に旅行に来た時の事を思い浮かべます。そして更にそのとある外国の人の身に自分がなった積りで自分の体を動かし自分のいつもの生活空間を歩く時、自分の足の運びの感じやその空間に今自分が注いでいるまなざしは、いつもと全く同じでは無い筈だと思うんです。日本の街並みや自然は、その外国人にとってはどれも興味深いものとして見られ、その様なまなざしから動いた手が触れる何かへのその触り方・感じ方・扱い方も、いつもと全く同じではない筈・・。ただこの様な変化が起こるのには、そもそもその外国に自分は興味を持ち始めていて、その国の人を自分は好きになり始めていたから・・という前提条件はやっぱり必要だったのかも知れない・・とも思います。
でもこの様な誰かが誰かの身になってみる現象は他にもいっぱいあって、それは例えば、今自分が恋愛感情を抱いている誰かの仕草を自分がまねてみたり、その誰かの好きな音楽には特別な意識が注がれる・・などなどだと思うのですが、私は、これらは決して偶然に起っているのではないし、いわゆる{内向き志向}の反対概念の様にされながらある{未来志向}だけからこれらは起り得る訳でもなくて、これらは、とある人が、過去からのまなざしに成れた結果として起こっている現象でもある様に思います。(かなり抽象的ですけど..)。
よく体のすごさや有り難さは、怪我や病気などでその部位・機能が失われた時になって気付く・・とも言われます。でも子供の頃の自分を思い出してみたり、スーパーなどで全てのものに興味を持ってはしゃいだり・自分が興味を持った商品のすごさを懸命に家族へ伝え様としている子供の姿を見れば、上記の話は、機能を失ってから気付いた話と言うよりは、誰しも子供の時には自分の足が思い通りに動かせ地面を踏んで歩ける事の楽しさとか不思議さなどなどにいつも心を躍らせる事・感動する事ができていたのに、一度忘れたあと、思い出した話、な様に私には感じられます。・・ちょっと非現実的ですけど・・自分や自分の周りの人の元気がなくなった時、子供だった頃の自分の体の使い方・まなざしの注ぎ方を思い出す為に、子供の頃の自分の身に今の自分がなってみる方法(飽く迄なった積りという事ですけど..)が試されたり志されたりする事自体は良いのでは?・・っとも思うのですが、これをそもそも意識してやろうなんて思わなくても、大きくなってからも子供だった頃と全く同じ仕方で、自分自身に触れ・他者に触れ・まなざしを注いでいる存在が動物なんだと思うんです。
歴史との完全な繋がりとしてある自然とほとんど一体となったかたちで存在している動物の体の使い方・特にその偽りのない過去からの完全な繋がりとしてのまなざしは、歴史や過去からの繋がりとしての自分を受け入れたくない人達にとっては、すごく頭にくる存在なのかも知れない・・とも思いました・・そうじゃなかったら動物だったり普通に人間の子供を虐待する人が存在している意味が私にはさっぱり分かりません。。
Aや、今もAを擁護している人達にとっては、過去も未来も現在も、自分達によって私物化してしまって構わないものとして扱われているのでは・・という様に私はどうしても感じてしまいます。図で表しますと・・(矢印記号は本当に同値な訳ではありません・・)
過去⇔過去も未来も私物化でき、そうして現在も私物化できる今⇔未来
みたいになっていて、特に少年法を絶対のものの様に思っている人の場合、上の図の様な考え方の事を{未来志向}みたいに思っている様にも私には感じられるんです・・。よく「{内向き志向}はダメだ」と言って、自分が{未来志向}である事を主張される方がいます。(←これはこのリテラの記事の話ではなくて、政治・経済の問題などで識者がよく使っている内容の話なのですが)でもそもそも過去と未来は対極ではない事を考えたら、本当の未来志向は
過去⇒過去からの繋がりとしての厚みのある今⇒未来
なのでは・・?とも思いました。(これもすごく簡略化した考え方・矢印の方向性な事は私も薄々気付いてはいるのですが..でも..)不確実な未来よりは、内の内・過去の過去の方にこそ、本当に共通で普遍的な価値は眠っている・・と考えたら、本当の内の内から未来に向かったまなざしの繋がりの度合いこそが、本当の未来志向度なのでは?という考え方です。そしてこの考え方は、歴史に筋を通す方法としても有効な様に今の私には思えます。。
動物に酷い事を続けて、更に小さな子を襲って、殺して「僕の作品」にして、自分のブログにその事を批判する方が現れたら「別に見たくなければ僕の創作物を見て頂かなくっても結構です」みたいに言ったAは、亡くなられた優しいおばあさんの事はとても好きだった様です。またこのエピソードをAの支援者の方達は高く評価してもいます。でも、本当に好きだったのなら、どうしてそのおばあさんの身になってみて、絶対に間違いなくおばあさんが悲しむであろう事を、やってしまえたんでしょうか・・。肯定ではなくて、否定される為に誰かが誰かの身になる一つの事態としての極刑によってしか正されない無秩序な状態を社会は否認し続けるのではなく、社会は、世の中には、絶対に赦してはならないものだってあるんだという事を直視するべきだと思いますし、余りにも酷い無秩序な状態には尚更、否認が克服されたのちの否定が達成されるべきで、そうして達成された否定は、歴史に否定されたものとして歴史に組み込まれ、歴史から排除はさせない・・そういう強い意志だって社会には必要な筈だと思いました。今を生きている人が、過去からのまなざしに完全に成る事は勿論非現実的でも、それでも生者のみによって筋が通るともやっぱり思えないという感じを今の私は持っています。
(千字位を心掛けたかったのですがどうしても無理でした。。すみません。。)