チャンネル桜の討論
「戦後日本人は変わってしまったのか?」、
いかがでしたか。
なかなか面白い内容になったと思うものの
ここであらためて提起しておきたいのが
番組の冒頭でも指摘した
テーマ設定をめぐる問題。
つまりですな。
かの武満徹さんが、
浅利慶太さんとの対談で
かつて、こう言ったことがあるのですよ。
いつだったか、
たまたまテレビを見ていたら君(浅利さん)が出ていて、
日本の文化を考えるとかいったかな、
何か放談会みたいなものだったが、
その中でほかの人はわりとせっかちで、
今後どうあるべきか、というようなことだったなあ。
日本人はわりとそうなんだよね。
音楽芸術はいかにあるべきかとか、
音楽とは何かとか、
常に本質的な問いを発するんだけど、
ちょっと空転しちゃってね。
(「日本語と文化について」。『浅利慶太の四季』第三巻収録)
ただし押さえるべきは、
本質的な問いを発するから空転するわけでは必ずしもない、
ということ。
つまりですな、
日本人は常に本質的な問いを発したがるのですが
私に言わせれば
思考を十分整理しないまま
曖昧な形でやってしまう。
本質的な問い、なんてものは
もともと「ああも言える、こうも言える」になりやすいのです。
これでポイントが曖昧だったら
空転して当たり前じゃないですかね。
「戦後日本人は変わってしまったのか?」も、
本質的だが曖昧すぎるテーマの例です。
ちょっと考えれば、以下の点について
まず詰めねばならないのは明らかでしょう。
1)国の変化と、国民の変化とは、重なり合う点もあるが同じではない。
ゆえに「戦後日本の変化」と「戦後日本人の変化」は分けて考えねばならない。
「戦後日本の変化は、日本人そのものの変化に起因するものなのか?」という問いかけなしには
曖昧すぎて議論にならない。
2)変化には可逆的なものと、不可逆なものとがある。
ゆえに、ただ「変わってしまったのか?」と問うのは大ざっぱすぎる。
「戦後日本人に変化が見られるとして、それはどこまで不可逆なものか?」といった具合に
論点を絞らねば話が見えてこない。
3)人間の行動は、内面と状況との組み合わせによって決まる。
よって行動が変わったからといって、内面も変わったと断定することはできない。
「戦後日本人の行動に変化が見られるとして、それはどこまで内面的なものか?」
という問いかけを入れておかないと、話が空転すること確実。
上記三点を無視してしまうと
日本の現状について気にくわないことをあげつらっては
「日本人は変わった、もうダメだ」と嘆いてみせる
ハメに陥ります。
このような言動は、深い問題意識があるように見えるかも知れませんが
「日本の現状を観念的に憂う自分」に陶酔する
特徴を持っている点で、憂国お花畑と言われても仕方ないもの。
ついでにくだんの陶酔にひたると、
日本の現状はダメであればあるほど都合が良い
ことになります。
憂国お花畑を満開にする口実が得られますからね。
とはいえこれって、どこかで聞いたおぼえがありませんか?
そうです。
平松禎史さんの言う「敵への心理的依存」のバリエーションなのです!
さしずめ「危機的状態への心理的依存」。
かつてこれは、左翼・リベラルの専売特許だったのですが
今や保守派も堂々とやるようになりました。
しかしエドマンド・バークは、こう喝破しています。
「国はこうあるべし」という自己の理論に酔う者は、本当には社会に関心など持っていない。
(↓)本書100ページをどうぞ。
(↓)だ・か・ら、こうなるのですよ!
はたせるかな、YouTubeにもこんなコメントが寄せられました。
もっとも的確な出発点が佐藤氏により与えられたと思います。
つまり、日本人は変わったのか? という問題提起自体を先ず理解しなくてはならない。
最後に水島さんが割って入ったように、
主催者側は元々は日本国は変わったのか? に関心があったようだ。
それから、ここの最初の議論で問題なのは、
日本人と日本人の行動の区別さえ、十分していない点である。
文系の方は数学に弱いようだが、
y=f(x) という式(※)を見れば、もうすこし論理的な話ができただろう。
日本人というf(function)を議論したいのか、
xという状況によって現れたyという行動を議論したいのか?
と言えば、fに決まっているというだろう。
しかし、fは直接は見えないのだ。
yという行動とxという状況から、fを推定し確定するのである。
WGIPは単にxであり、その結果のyを見て、日本人は洗脳されてしまったと嘆くのは滑稽ですらある。
佐藤氏が言うように、fは1000年単位でかわるのであり、70年くらいで変わるものではない。
(※)日本人の国民性を一種の関数(f)と見なした場合、
日本人の行動(y)は、特定の状況(x)において当該の関数が示す値である、の意。
これを踏まえれば、
憂国お花畑(y)とは
気にくわない状況(x)において
曖昧で空転する思考(f)が示す値となります。
y=f(x)の式はここでも成立するわけです。
yを「炎上」にすることもできるでしょうね。
保守派に必要なのは
自分の思考が曖昧で空転していないか
および
そこに「国を憂える自分に酔いたい」ナルシシズムが入り込んでいないか
シビアに問い直すためのクライテリオン(判断基準)なのでありました。
ではでは♬(^_^)♬
7 comments
豆腐メンタル says:
12月 24, 2017
>本質的だが曖昧すぎるテーマ
…にも関わらず、とても刺激的な討論でした。やはりメンバーの質が違うから。きっと何度か観返します。
会社なんかでも同様ですが、お題(つまり問い)の精度次第で議論の質が変わります。
ほとんどの方が素晴らしかったのですが、中でも今回私は、藤井先生の論理の進め方に感心しました。
確か「私は身体性(郷土、風土、暮らし)を取り戻したい」という藤井先生のご発言がありました。これは、「日本は変わってしまったのか」という曖昧なお題に対する、結論からのアプローチです。真摯な態度を感じました。
しかし、そのような態度から最も遠いと思えるのが司会者、というのが残念でなりません(愚痴ってすいません)。さらになぜか佐藤先生がマークされています。邪魔すんな。苦笑
討論とは何のためになすのでしょう。裁判でもなければ、テストでもない。究極的には、”答え”を出すためではないはずです。
幅のある考えを通してメンバーに共通認識が生まれたり、方向性やプロセス、合意点や相違点が浮き彫りになることこそが重要ではないでしょうか。
今回の討論でも触れられましたが、文学と漫画(映像)の話と関係すると思っています。漫画や映像は刺激的すぎて答え的なものが現れてしまう。そして、その答え的なものに阻まれ、深めるべき議論が深まらないということが付きまといます。しかし文学(とくに純文学)は浮き彫りにするのみで答えらしきものは無い。
刺激に慣れ、答え的なものに慣れてしまった人にとって文学は「何が言いたいのか分からない」とか、「答えを出していない」、宙ぶらりんなものとして耐えられない。だから議論においても。。
>常に本質的な問いを発するんだけど、ちょっと空転しちゃってね。
なんてことになるのではないでしょうか。
ともあれ、議論においては「抽象的にして具象」「具象的にして抽象」なんて”困難”に直面したとしても、投げ出さない我慢が求められますね。
佐藤先生はもちろん”到達”されており、それはつまり「ニーチェとは芋である」というお言葉に具現しました。
毎度長文すいません。
レギーム作 says:
12月 24, 2017
議論中盤で佐藤先生がユーモアという名の潤滑油を差されてから、
流れが良くなったと感じました。
この記事で紹介されているyoutubeのコメントは素晴らしいですね♪
数式の所で5分くらい固まってしまいました(;^_^A
議論を終わりまで見て、私にしては珍しく色々考え、心地よい疲れを覚えました。
最後に、比較しちゃうのはオカシイのですが、私のホンネは、
今回の議論より浅野さんとコンビの番組の方がよかった、というか好きです。
半ライス大盛 says:
12月 25, 2017
見ました!私にとっては、大変濃い議論だったと思います。
途中何度も自分の考えを整理する為に、動画を止めたり、戻したりして見てました。
小林秀雄の無常という事についても、もやもやしてましたが
議論を聞いていて大変得心致しました。
さて、佐藤先生もメディア露出が増えて大変うれしく思います。
髪型のせいか、昔のギラついた野性味より、ダンディーな色気が出ていて
かっちょいいいです。
男であっても、美意識は立ち振る舞いに漂わせておきたいですよね!
コバ says:
12月 25, 2017
先生のおっしゃられる通りで、空転が多かったと思います。そうはいっても面白かったので全部見ましたが、三権分立を唱えたのは誰かとか、文学は偉大とか、正直しょうもない話や空理空論も多かった気がします。テーマに沿って語ろうとしたインフューラーの言さえやや冴えない印象でした。
ハッキリ言ってテーマが微妙過ぎると思います。抽象的に言えばある程度よい面も悪い面も変化しただろうとしか言い様のないテーマです。科学的根拠に基づいて説明することも不可能でしょう。
あと変化を論じるなら変化したと仮定して、その結果どうなるのか、結果についても論じる必要があるでしょう。政治は結果が全てというネタもありますので(笑)
佐藤先生が財政破綻論なんていう幼稚なお小遣い帳感覚に陥りやすいのも、国の永続性を信じられないような心理的変化、心情があるのではないかと仰られたのが今回の討論と昨今の問題に対する提起として本質的だったと思います。ただ戦前戦後で変化したかはそれも定かではないですし、緊縮財政を憲法に書いてるドイツの例を見ても必ずしも日本特有の問題でも無さそうですので難しいテーマだと思います…
あと日本人というくくりで見ても本当は難しくて、三橋氏も中野剛志氏も財務省の緊縮財政派もみんな同じ日本人ですから、どう変化したかと言われても答えようのない質問かもしれないです
欧州旅行して思うのは駆け込み乗車する焦ってる外国人もいるし、親切な奴もいるし、文句言ってくる奴もいるし、身体性を帯びた生の人間には実は、日本人も欧州人も、もっと言えば人類全体は大差ないような気もするんですよね。誰であってももし金正恩に生まれたら、結局核開発に突き進むしか生きる道がないような気もするし…
フルート says:
12月 25, 2017
YouTubeにコメントされた方の文章を引用させて頂きます。
y=f(x) という式を見れば、もうすこし論理的な話ができただろう。日本人というf(function)を議論したいのか、xという状況によって現れたyという行動を議論したいのか?と言えば、fに決まっているというだろう。しかし、fは直接は見えないのだ。yという行動とxという状況から、fを推定し確定するのである。WGIPは単にxであり、その結果のyを見て、日本人は洗脳されてしまったと嘆くのは滑稽ですらある。
引用おわります。
この文章は読む人によっては、科学的な実験の要領を用いて、直接には見えないf(日本人)を、独立変数(他の変数とは無関係に独立に自由に変化し得るものとされたある変数)としてのx(状況)と、従属変数としてのy(行動)から、推定し確定するのである。みたいに読まれる可能性もあるように感じました。結局は問題のある私の読み方が悪いという話しかもしれないのですけど、、でももし上のような形で読んだ場合、身体性はどうなるんだろうと思いました。
状況は、身体の外と中のそれぞれに存在しているはずです。fは、何者かからfとして推定された時点で、もう何者かの身体の中と外とが関係してできた状況であるのと同時に、外へと出された行動としても解釈され得るはずで、身体は、行動を起こしていてもいなくても外の状況と無関係でいられるはずはないのと同時に、身体が外の状況から完全に独立して自由になどなれない理由として、推定からの確定という行動も、身体の中(自分の身体の外にある別の人の身体の中からも含む)からしか起こらない事を考えれば、身体性は、y=f(x) という式を構成させるものとしての(分けられたものとしての)y、f、xを考える事より、自他の境界を超えるものとしての状況に如何に関わって行くか(何かを見ている身体は何かから見られる身体であり、あたかも見られたものとそれを見たものとの境界が因果関係を構成するものかのように区別され得るとは考えず、他者から見られる身体として自分をどう開くか)の方に主眼を置くのかもしれないとか思いました。
(「滑稽ですらある。」とされ、そのように見られているものも、そのように見ているものも、見られるというのが身体性の議論だとすると、「滑稽」というここでの言葉でもあるこの見方には、このような自分の見方を諧謔したものという面も同時に含まれている可能性があるんだと思うのですが、でもやっぱり滑稽という言葉は、相手への嘲笑として使われることの方が多い言葉で、相手と自分とを別けることに気持ちが向かっているときに使われる言葉でもあるのでは..とか思いました。。)
shun says:
12月 25, 2017
見ましたー面白かったです!!
久しぶりに骨太で有意義な討論でした。
お疲れさまでしたm(_ _)m
「東京物語」「この世界の片隅に」を通した
戦後日本の観察の下りは特に面白く傾聴させていただきました。
一点、水島社長が何で佐藤先生に
軽く食って掛かるのか考えたのですが(特に冒頭)
水島社長は「天皇」や「時空」とか論理を越えたものが好きなんでしょうね。
だから論理の鬼である佐藤先生の言わんとしていることが
煩わしく聞こえているのかなあ?と。
逆に論理を詰める佐藤先生からしたら
現代日本の保守?の思考は「お花畑」になるのかなと(笑)
しかしながら、論理を詰めず空気や歴史を重視しすぎた結果
先の大戦を敗戦に導いてしまったのかなあと個人的には思うので
「戦後日本人」そして更なる未来の日本人の事を考えるならば、
やはり空気より論理を詰めないと、次のステップには進めないのではないかと思いました。
tinman says:
12月 27, 2017
身体性こそ「プラグマティズムの作法」の基本にして奥義であると確認しました
京大の望月教授のブログが際立って良い例かもしれません
それからはなんとなく王立宇宙軍を観ていました
ウシジマくんは最強伝説黒沢同様未読
食わず嫌いでしたがぼちぼち読もうと思ってます
藤井先生に感謝