ネットでスゴい記事を発見しました。
これです。
井上さんは、
小説や戯曲で知られた井上ひさしさんの三女。
現在、井上さんの作品を上演する劇団「こまつ座」の社長です。
井上ひさしさん、
九条の会の呼びかけ人でもありましたから、
麻矢さんが護憲というのは分かります。
しかし・・・
まずは記事をどうぞ。
父の井上ひさしから
「憲法は戦争で亡くなった人たちが命を懸けて勝ち取った言葉だ」と、
幼いころから聞かされてきた。
国のために死ぬという戦時の少年たちの価値観。
それを将来の夢を語れるようにしてくれたのが憲法だった。
「だから年を取れば取るほど憲法が好きになる」と。
東京・新宿でこまつ座が上演する、
原爆投下から三年の広島が舞台の「父と暮(くら)せば」は、
生きていく私たちが人の死から何を学ばねばならないのか、などがテーマだ。
父は「戦争で亡くなった人は語れないが、代わりに語っているのが憲法」と言った。
憲法を超えるようなものが議論されている今だからこそ、この劇をやり直したい。
赤文字にした部分をつないでみましょう。
まるで日本国憲法は、
太平洋戦争における日本の戦没者(の霊)によって
制定されたかのごとくではありませんか。
ついでに「勝ち取った」とあるからには
ポツダム宣言を受け入れようと、
主要都市が焼け野原になろうと、
7年近く国が占領されようと、
日本はあの戦争に勝利したらしい。
おお、ある意味での潜在的な所のいわゆるそれ自体ではありませんか!
護憲派が(内心)「日本は勝った」と思っているのですから
WGIPの悪影響も知れたもの。
・・・それはともかく。
戦後日本の対米協調(ないし追従)をめぐり
負けを勝ちと言いくるめたいがゆえに起こった
巨大な現実逃避だったと論じました。
麻矢さんのコメントは
この主張をみごとに裏書きしてくれたと言えるでしょう。
なにせ占領下にGHQ主導でつくられた
言いかえれば「負け取った」憲法が
〈日本の戦没者が勝ち取ったもの〉とされているのです。
自国と占領軍(つまりアメリカ)をここまで同一視できれば
集団的自衛権行使まであと一歩といっても過言ではない。
井上麻矢さん、
「ぜひ、首相に私たちの舞台を見に来てほしい」
と語っていますが、
どうしてどうして、総理は感動されるかも知れませんよ。
保守派の某センセイなど
間違いなく滂沱の涙でしょう。
ある意味での潜在的なところのいわゆるそれ自体なんですから。
そうしたらどうしますか?
というわけで、「愛国のパラドックス」は
本日も生き続けているのでありました。
ではでは♬(^_^)♬
5 comments
WGIPの理想的成功例 says:
6月 26, 2015
“被害者”というカテゴリーに属する者の中で、最も愚鈍な部類とは、間違いなく”無自覚な被害者”だろう。そこで某氏の存在が頭を過ぎる。某氏はWGIPに精通しているにも関わらずフランス発祥であるネクタイおよびネクタイに付随する礼儀的概念を信奉していたのだ。そもそもの話として討論の論題と関係のない話を持ち出して批判することは極めて無礼である。その上で百歩譲ってネクタイが日本発祥であるならまだ許容できる余地もある。しかしフランス発祥の文化概念を信奉しておきながら日本人はWGIPの洗脳から云々などと言われても呆れる以外にリアクションの取りようがないというのが私の本心である。他にもネクタイ未着用者が複数人いたにも関わらず彼らを不問と処した件など色々と突っ込みたいことは山のようにあるがこのへんで筆を置くこととする。
たかゆき says:
6月 26, 2015
現憲法は泥水である!
掻き回せば掻き回すほどに
濁るだけ。
清水にするにはどうするか?
現憲法を破棄して明治憲法に戻し
改定すべきところは改定するのが
筋かと。
それができないのなら、、
現憲法をそっとしておき
その上澄みだけを
利用すべきでしょう。
「対米関係」については
「面従腹背」に徹すべき!
しかるに
田中角栄総理や中川昭一大臣に対する
アメリカ政府や日本マスコミの仕打ちをみてか、、
「ひたすら服従」の無策。
かくして
アメリカの対日占領政策は
空前絶後(たぶん)の成功を収め
民草から お上まで
自分でも何を言っているのか分からない
「ある意味での潜在的なところのいわゆるそれ」状態
一期は夢よ ただ狂へ ♪
カインズ says:
6月 26, 2015
集団的自衛権の議論なんてナンセンス、なぜなら日本とアメリカは同一のもの。個別的自衛権で片が付くというわけですね。
たかゆき says:
6月 26, 2015
御意♪
フルート says:
6月 27, 2015
上手く説明できないのですが、、でもこれだけは絶対に言える事は、事実現憲法は、現実に当時負けたから誕生した憲法なのだという事と(現在の改憲派・護憲派どちらの立場であろうと負けは負けです)、「戦争で亡くなった人は語れないが、代わりに語っているのが憲法」というのも、正確には、自分達が、自分達の弱さを隠蔽する意図から先人(死者)による語りという体裁をとった<語らせ>をさせているのであって、これが有り得ない形の勝ちの主張と結びついているという事だと思います。
また(個人的にここからは混乱した可能性もあるのですが..)、「国のために死ぬという戦時の少年たちの価値観(←どうして「少年たち」だけで大人たちが省かれているのかという所にも、やや納得できないものがありますが・・)。それを将来の夢を語れるようにしてくれたのが(←変えてくれたのが?)憲法だった。『だから年を取れば取るほど憲法が好きになる』と。」・・・というのも、見通しが甘かったり、列強に同化して行く様な急いた近代化の過程で自分達を見失い・言葉がいい加減になったりした事から帰結した敗戦という事態に対して、自分達の弱さを隠蔽する意図から自分達と政府(国)とを恣意的に分離させ、且つ実際には政府に敵わなかった自分達を、政府や国に留まらず・戦勝国にさえ勝っているかの様にすり替える、そんな弱い自分達への甘やかしが、結果として、政府や国の存在を否定する事が「夢を語れる」事にさせ、日本の歴史や日本の道徳を信じ・これに自分の命さえ超えた尊さを感じとってもいた先人達を、自分達(生者)より実は下に見つつ・見たくない部分は見ない・・、そんな自分達の未熟さの現れ・・である様に感じました。
元少年Aの『絶歌』の出版や、死刑廃止論なども、この様な今の生者の権利・今の生者の命なりの尊さを主張する為になら、死者の尊厳・死者の信じている道徳は下に見ても良い・・、そんな今生者でいる自分達への甘やかしが、『年を取れば取るほど憲法が好きになる』に現れている様にも思えるのです・・。
でも同時に改憲派は改憲派で(特に安倍総理・・)、護憲派を下に見つつ・見たくない部分は見ないし、見通しが甘かったり・アメリカ(護憲派はアメリカすら飛び越えて国連?)と心的に一体化したかの様な自分達の見失いをしている様に感じます。
見たくない部分も見ないと全体は判らないし、見たくない部分も自分達の中に収めないと全体として保てない。ただ自分達を構成する自分の中にある見たくない部分さえ自分で収められないなら、自分という小さな全体すら保てない・・。ここで思い出されるのが新自由主義です。新自由主義的な(?)<そもそも全体が保たれる必要性が無い。強い部分だけ生き残って弱い部分は無くなってしまって良い>(?)という様な構え方こそ、結局はいつか自分という小さな全体さえ保つ事をやめさせ、自分を自分で分解しながら失敗は全部相手のせいという事態に至らせているのでは・・とも考えられます。しかし一方護憲派からすれば、<国家という共同体への披かれと収斂として永続してきた道徳が強過ぎたから、自分達を見失ったんだ>という考え方もあるんだと思います。でもそれは確かに私も半面はそうだと思うのですけど、自分の見たくないもの(例えば弱さ)も含めて自分の中に収められるそういう強さがあるなら、強い道徳は、出来たばっかり(?)であったり生得的過ぎる人権などより経験性として優れている様に私には思えます・・。ですから今道徳をもう少し真剣に意識すべきは、護憲派と改憲派の両方の筈では・・と思うんです。(『絶歌』の出版などを受けて、私は命と人権と道徳の3つで言えば、そもそも出来たばっかりの(?)人権意識より、命の方が絶対に重いけど、しかし人権や命のその重みの土台には、必ず全体への披かれと収斂として来た連続性・経験性でもある道徳が伴なっていなければ成らないのであって、その点で一番重いものは、実は道徳なのでは・・という考えで今はいます。。)