10月9日の記事
「『殺したがるバカ』が意味するもの」では
日本弁護士連合会(日弁連)のシンポジウムに寄せられた
瀬戸内寂聴さんのビデオメッセージを取り上げました。
死刑反対を唱える立場から
「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。
みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。
そして、殺したがるばかどもと戦ってください」
と述べたアレです。
死刑制度は国家による殺人だから、ということらしいのですが
戦後日本において死刑判決を受けた者は
例外なく人の命を奪っている。
どうも国家による殺人のほうが
個人による殺人よりも
罪が重いらしいんですね。
しかるにこの論理を突き詰めると
国家によって殺された命のほうが
個人によって殺された命より価値がある
という話にもなりかねない。
なにせ罪の重さが違うんですから。
とはいえ、こんな形で命に等級をつけていいのか?
支離滅裂なダブルスタンダードにして
欺瞞的な偽善と呼んだゆえんですが
例によって、ここには興味深いパラドックスがひそんでいる。
瀬戸内さん流、
ないし日弁連流の発想にしたがうかぎり
国家が死刑制度を維持してくれるほうが
犯罪者を擁護しやすくなるのです。
この人物は罪を犯した。
しかし国家は「法の支配」の名のもと、
死刑によって人を殺すという
さらに大きな罪を犯しているのだから
それに比べれば、この人物の罪は軽い!
・・・こう主張できるじゃないですか。
いいかえれば瀬戸内さんや日弁連は
主観的には対立しているつもりの「殺したがるバカ」に
じつはどっぷり依存しているのです。
毎度おなじみ、「せい」と「おかげ」は紙一重というやつ。
事実、大島渚さんは
1968年の映画「絞死刑」で
上記の主張をそっくり展開しました。
これは1958年に起きた小松川高校事件
(同名の定時制高校に通っていた青年・李珍宇が二件の強姦殺人を犯した事件。
李は1962年に死刑となった)
を題材にしているのですが
やはり死刑反対論者である大島監督は
作品のメッセージをこう語っています。
国家が戦争や死刑によって人を殺すという
絶対悪を合法化しているかぎり
私たちはすべて無罪である!
・・・なるほど、そうですか。
となると、国家が戦争や死刑をやめたらまずいことになりますねえ。
無罪を主張する根拠がなくなってしまいますもん。
ずばり戦争さまさま、
死刑さまさまではありませんか!
これで本当に死刑反対を主張しているつもりなんですかね?!
ついでに。
われわれがすべて無罪なのは大いに結構として
そう決めてくれる主体は何なのか。
死刑反対という文脈において語られている以上、
この「無罪」は法的な判断でしかありえない。
しかるに司法は国家主権の一部。
そうです。
大島監督は戦争や死刑を「絶対悪」と位置づけ、
国家の「殺したがるバカ」ぶりを糾弾してみせる一方で、
ほかならぬ戦争や死刑の存在を根拠として
「殺したがるバカ」たる国家から無罪認定を受けたがっているのですよ!!
国家依存症としか形容しえない
この甘えっぷりは何事でありましょうか?!?
左翼・リベラルにも困ったものです。
国家が戦争や死刑によって人を殺すという
絶対悪を合法化しているかぎり
私たちは国家に保護を期待しないかわり
国家の支配も受け入れない自由と権利を持つ!
真の反国家主義者なら、こう宣言できなければ。
ちなみにこれが、
本来の意味における「アウトロー」の定義です。
法の支配の外にいるため、
法によって守られてもいないが
法によって裁かれもしない存在ということですね。
ただし。
法によって守られていない以上、
アウトローを殺したところで罪には問われません。
念のため!
ではでは♬(^_^)♬
13 comments
ホワホ says:
10月 11, 2016
そういえば、死刑廃止の国でも
ちょっと重大な事件になるだけで法廷も糞もなく問答無用の射殺してますけど
廃止派の人達はああいうのについてどう思ってるんでしょうかね?
TOMAS伍式 says:
10月 11, 2016
日本の左翼が国家依存症になりがちなのは、日本の国家というものが「所与」のものとしてあるからではないでしょうか。特に日本の場合、先の戦争で中打撃を受けたとはいえ、皇室を中心とする国民国家を2000年維持しているわけですから、その蓄積の「おぞましさ」を前提として私達が生まれたのだと捉え直して見ると、生粋のアウトローが生まれにくい環境ではあると思います。そういう意味では、戦後70年左翼リベラルは程度の差はあれ、頑張ってきたとも言えるでしょう。
しゅんぺー says:
10月 11, 2016
ぐうの音も出ない正論です。
佐藤先生の論調が地上波にも出てくれると
日本人も少しは「馬鹿ども」ではなくなるのですが・・
佐藤先生、そちら方面の教育もぜひともよろしくお願いいたします(笑)
ところで全く関係ありませんが、
ポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダ監督が10/9亡くなられたそうです。
彼の作品には大島渚監督のような「甘え」もなく、万人の心に響く骨太な内容でしたね。
両者とも才能があり世代もまあまあ(アンジェイワイダ90歳と大島渚83歳)近いですが
この違いはどこから生まれてきたのでしょうか。
果たして日本人の映画監督に「カティンの森」の深刻なラスト、
ソ連によるポーランド軍人将校たちの虐殺シーンのようなものを描けるのか、甚だ疑問です。
フルート says:
10月 11, 2016
下は日弁連の主張です。
「生まれながらの犯罪者」はいません。罪を犯してしまう要因には、生育環境に恵まれず、自分と他者を大切にする人間関係を学び損ねることや、貧困、障がい、社会的疎外など、複雑な過程が関わっています。また、心理学や人間行動科学、脳科学の進歩により、犯罪と考えられてきた行動の相当数が疾病的要素を持つこと、適切な支援により改善が可能であることがわかってきています。罪を犯す人は、社会から見れば「困った人」ですが、本人の立場に立てば、様々な問題や困難を抱え、解決方法がわからず、「困っている人」でもあるのです。刑罰は「困った人」を社会から排除するのではなく、「困っている人」を援助して、地域社会で共生できるようにすることを可能にするものでなければなりません。それが、全ての人が生きやすい社会、新たな被害者を生まない、真に安全・安心な社会を実現することにつながるのです。
引用おわります。要は、
<死刑制度の必要性を認めている現在の社会(※というか国)は、(例えば→)強姦殺人犯のことを「困った人」としてしか見ることができていないのですが、私たち日弁連は、強姦殺人犯のことを「困っている人」として見ることができるのです。この私たちの視点に、社会が立つことができれば、全ての人が生きやすい社会、新たな被害者を生まない、真に安全・安心な社会が、ゆくゆくは実現されるのです。>
ということらしいのですが、「困っている」どころか自分が殺されるよりもつらい苦しみを今も、この人たちからも受けさせられ続けているのが被害者のご遺族や恋人たちで、殺されるよりもつらい苦しみを殺される前に受け、そしてそのあとから本当に自分が殺される苦しみを現在まで変わらず受けさせられ続けているのが殺された被害者です。日弁連は、犯罪者の神経のことや生育のこと・これへの社会の関わり方のことについて話しているのですが、私は、悪いことはいつも{悪い社会としての悪い国のせい}で・善いことの発生だったり成立はいつも{自分たちのおかげ}な神経({せいにされるための国の存在}、そして{世の中のおかげの発生もととしての自分たちの存在}は感じられても、{自分たちのせいの可能性の存在}や、{自分たちのおかげ}を超え出ている{歴史的共同体としてのおかげの存在}は感じられない神経)のことについてや、この様な日弁連との社会の関わり合い方も同時に話し合われるべきだと思いました。(何回も長文すみませんでした。。)
TOMAS伍式 says:
10月 11, 2016
>殺されるよりもつらい苦しみを殺される前に受け、そしてそのあとから本当に自分が殺される苦しみを現在まで変わらず受けさせられ続けているのが殺された被害者です。
揚げ足取りではありませんが、一つだけ。人は本当に辛ければ、直ぐに自殺しますよ。この事実を肉体化出来れば、人間の言葉や行動は究極的にはやはり無力で虚しいものだなぁと少し大人になることが出来ます。事件については被害者の方には同情を禁じえませんが、被害者のご遺族や恋人を無条件に考慮するというのは、一定の担保を置くべきかと思いますね。
フルート says:
10月 11, 2016
すみません、、私にも判るようにもう少し判りやすく説明して頂けないでしょうか…事実の肉体化というのは自殺することを指しているのですか?
フルート says:
10月 12, 2016
すみません私の方こそ判りにくい文章を書いてしまっていたのかもしれないのですが、、
「困っている」どころか自分が殺されるよりもつらい苦しみを今も、この人たちからも受けさせられ続けているのが被害者のご遺族や恋人たちで、殺されるよりもつらい苦しみを殺される前に受け、そしてそのあとから本当に自分が殺される苦しみを現在まで変わらず受けさせられ続けているのが殺された被害者です。
のことについてなのですが、
「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。」
と言うビデオメッセージに納得しただけでなく、実際に<死刑より野蛮なものなどない>という認識からの行動だったり振る舞いをしている様に私からは見える日弁連に対して、私が最初に言いたいことは、<何よりも死刑こそが一番野蛮だ>という認識は間違っている、ということについてです。
死刑に伴う殺しの暴力性(主に死刑囚の命が絶たれる瞬間の暴力・絶たれるまでに続く暴力・そして執行人の心身的負担などなど)については話しの焦点となり論じられても、被害者が犯罪者に命を奪われる前に行われた(あとにも行われたかもしれませんが・・・)レイプのむごさ・怖ろしさについては、強姦殺人を犯した人間の死刑に伴う暴力性よりもいつも下に見られ、そしてこのことによってもまた苦しめられ続けているご遺族や恋人たちの存在・そしてこのご遺族や恋人たちからの主張の深さを本当には理解できていない自分たちの存在とが焦点になり論じられることはいつもない日弁連(※の中の死刑反対派)に対して(少年Aのことについてもほぼ同じことです・・・)、ご遺族や恋人たちが、自分が殺されるよりもつらい苦しみを抱えても自殺しないで戦うのは、この様な日弁連の死刑反対派が論じる野蛮さ・むごさを超える野蛮さ・むごさの存在と、この様な日弁連の死刑反対派が論じる正しさを超えている正しさの存在を、ご遺族や恋人たちは感じていて、且つ、ご遺族や恋人たちは、自分たちの言論と行動によって、この様な日弁連の死刑反対派の認識・振る舞いにそれほど疑いも持たずに賛同してしまう層も・そしていつかはこの様な日弁連の死刑反対派をも変えられる筈という気力を、今も持ち続けられているから、ではないの?というのが私の認識です。体を動かすことも何かを訴えることももう自らはできない殺された被害者と(<死刑に伴うむごさよりもむごいことをされたあとにおとずれた本当に自分が殺される苦しみ>と)一緒に生きているご遺族や恋人たちのことを「無条件に考慮する」ことの危険性の存在も私は理解できますが、一度日弁連がシンポジウムに先立って制作したチラシを見て頂けないでしょうか?ごみ箱を持った人物が誰かと、その人物がしゃべっているセリフ、そしてそのセリフをトレースした様なことを語る日弁連という存在、そして絞首台の階段中央に描かれたねこ(まゆを片方だけ下げ、口元は緩く上がり、いかにもニヒリズムを気取っているタイプに見える表情で「被害者や遺族のことを考えると・・・」としゃべっているねこ)の存在、そしてそのねこをチラシの一番最後でも再登場させている点(「執行している国は少ないんだね」と何やらびっくりしつつ喜んでいる様なのですが、それを言うならそもそも日本ほど殺人事件が少ない国こそ稀である点と、そしてチラシと同時に制作されている『第3分科会のご案内』というPDFファイル内の「全ての人が生きやすい社会、新たな被害者を生まない、真に安全・安心な社会を実現することにつながるのです。」でもあきらかなとおり、例えば自分たち死刑反対派が強姦殺人の死刑囚の気持ち=“その死刑囚の乳児期からの生育環境の学び直しにさえ自分たちはなることができているつもり”にはなれても、この日弁連のこどもじみた理屈と態度によってまた“新たに”ご遺族・恋人たちは耐え難い被害を受けさせられ続けているのにもかかわらず、被害者やご遺族・恋人たちの思い・これが成立した環境・関係だけはあからさまに無視できる神経)に注目したなら、私は上記の「死刑反対派をも変えられる筈という気力を、今も持ち続けられているから、ではないの?」という認識をもっているのが、仮に私だけであったとしたって、こちらの方が日弁連の主張・態度などよりずっと正しい、負けちゃいけない、と思うでしょうし、私には、ご遺族や恋人たちが全くこの様な認識など持ってはいない、とは、ちょっと考えられません・・ですので負けない様に応援したいという気持ちで私はいます。
またもし「人間の言葉や行動は究極的にはやはり無力で虚しいものだなぁと少し大人になる」ために行われる“事実の肉体化”が、“レイプの被害者が被害に遭っているまさにそのときに自殺すること”であったり、“殺される前に逃げることだけはできたレイプ被害者がのちに自殺すること”なのなら、こんなに冷たい虚無主義はないですし、またもし「この事実を肉体化出来れば」が指しているものが私の次の表現
殺されるよりもつらい苦しみを殺される前に受け、そしてそのあとから本当に自分が殺される苦しみを現在まで変わらず受けさせられ続けているのが殺された被害者です。
であった場合の、(“日弁連が認識できている範囲の野蛮さ”のお話しと、殺された被害者はもう動くことも自ら何かを訴えることもできないお話しについてはすでにしましたが)“肉体化こそできてはいないが事実は事実”の存在が殺された被害者の思いのことであった場合だって、強姦魔に殺された被害者のご遺族や恋人たちが、殺された被害者の思いというご遺族や恋人たちの認識を、上の様な日弁連の死刑反対派に向け主張できているのなら、“肉体化”が必ずしも必須条件なのだとは言えない様に私には思えます。(認識している時点でそもそも“肉体”というのもありますが・・)
そして「揚げ足取りではありませんが、一つだけ。人は本当に辛ければ、直ぐに自殺しますよ。この事実を肉体化出来れば、人間の言葉や行動は究極的にはやはり無力で虚しいものだなぁと少し大人になることが出来ます。」の中の「事実」は実はただの皮肉で、本当はそんな“事実などない” ということの (殺された被害者もご遺族も恋人たちもその支援者もこんな認識などもってはいないということの)主張で「事実」と書かれていた場合ですが、全く仮の話しとしてこんな認識などもっているのは実は私だけだったとしましょう。それで私がこの私の認識から活動していくことが“人間の言葉や行動は究極的にはやはり無力で虚しいものだなぁと少し大人になることができる”ことにつながるのだとの主張だったとしたって、“すでに「究極的」な存在だったり認識に立っているか、あるいは少なくとも私とか私の周りの人とは違って「究極」に至ることのできる人からの助言だから・・”とか、そもそも少ない言葉から納得することは私にはできません。
・・急いで書いたので脱線していたり混乱もあるかもしれません..。本当はもう長文は控えるつもりで前回のコメントをおえていたつもりだったのですが..すみません。。
玉田泰 says:
10月 14, 2016
「人は本当に辛ければ、直ぐに自殺」するとの見解の根拠は何ですか?
それから「無条件に考慮する」とは誰の意見ですか?
フルート says:
10月 12, 2016
すみません私の方こそ判りにくい文章を書いてしまっていたのかもしれないのですが、、
「困っている」どころか自分が殺されるよりもつらい苦しみを今も、この人たちからも受けさせられ続けているのが被害者のご遺族や恋人たちで、殺されるよりもつらい苦しみを殺される前に受け、そしてそのあとから本当に自分が殺される苦しみを現在まで変わらず受けさせられ続けているのが殺された被害者です。
のことについてなのですが、
「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。」
と言うビデオメッセージに納得しただけでなく、実際に<死刑より野蛮なものなどない>という認識からの行動だったり振る舞いをしている様に私からは見える日弁連に対して、私が最初に言いたいことは、<何よりも死刑こそが一番野蛮だ>という認識は間違っている、ということについてです。
死刑に伴う殺しの暴力性(主に死刑囚の命が絶たれる瞬間の暴力・絶たれるまでに続く暴力・そして執行人の心身的負担などなど)については話しの焦点となり論じられても、被害者が犯罪者に命を奪われる前に行われた(あとにも行われたかもしれませんが・・・)レイプのむごさ・怖ろしさについては、強姦殺人を犯した人間の死刑に伴う暴力性よりもいつも下に見られ、そしてこのことによってもまた苦しめられ続けているご遺族や恋人たちの存在・そしてこのご遺族や恋人たちからの主張の深さを本当には理解できていない自分たちの存在とが焦点になり論じられることはいつもない日弁連(※の中の死刑反対派)に対して(少年Aのことについてもほぼ同じことです・・・)、ご遺族や恋人たちが、自分が殺されるよりもつらい苦しみを抱えても自殺しないで戦うのは、この様な日弁連の死刑反対派が論じる野蛮さ・むごさを超える野蛮さ・むごさの存在と、この様な日弁連の死刑反対派が論じる正しさを超えている正しさの存在を、ご遺族や恋人たちは感じていて、且つ、ご遺族や恋人たちは、自分たちの言論と行動によって、この様な日弁連の死刑反対派の認識・振る舞いにそれほど疑いも持たずに賛同してしまう層も・そしていつかはこの様な日弁連の死刑反対派をも変えられる筈という気力を、今も持ち続けられているから、ではないの?というのが私の認識です。体を動かすことも何かを訴えることももう自らはできない殺された被害者と(<死刑に伴うむごさよりもむごいことをされたあとにおとずれた本当に自分が殺される苦しみ>と)一緒に生きているご遺族や恋人たちのことを「無条件に考慮する」ことの危険性の存在も私は理解できますが、一度日弁連がシンポジウムに先立って制作したチラシを見て頂けないでしょうか?ごみ箱を持った人物が誰かと、その人物がしゃべっているセリフ、そしてそのセリフをトレースした様なことを語る日弁連という存在、そして絞首台の階段中央に描かれたねこ(まゆを片方だけ下げ、口元は緩く上がり、いかにもニヒリズムを気取っているタイプに見える表情で「被害者や遺族のことを考えると・・・」としゃべっているねこ)の存在、そしてそのねこをチラシの一番最後でも再登場させている点(「執行している国は少ないんだね」と何やらびっくりしつつ喜んでいる様なのですが、それを言うならそもそも日本ほど殺人事件が少ない国こそ稀である点と、そしてチラシと同時に制作されている『第3分科会のご案内』というPDFファイル内の「全ての人が生きやすい社会、新たな被害者を生まない、真に安全・安心な社会を実現することにつながるのです。」でもあきらかなとおり、例えば自分たち死刑反対派が強姦殺人の死刑囚の気持ち=“その死刑囚の乳児期からの生育環境の学び直しにさえ自分たちはなることができているつもり”にはなれても、この日弁連のこどもじみた理屈と態度によってまた“新たに”ご遺族・恋人たちは耐え難い被害を受けさせられ続けているのにもかかわらず、被害者やご遺族・恋人たちの思い・これが成立した環境・関係だけはあからさまに無視できる神経)に注目したなら、私は上記の「死刑反対派をも変えられる筈という気力を、今も持ち続けられているから、ではないの?」という認識をもっているのが、仮に私だけであったとしたって、こちらの方が日弁連の主張・態度などよりずっと正しい、負けちゃいけない、と思うでしょうし、私には、ご遺族や恋人たちが全くこの様な認識など持ってはいない、とは、ちょっと考えられません・・ですので負けない様に応援したいという気持ちで私はいます。
またもし「人間の言葉や行動は究極的にはやはり無力で虚しいものだなぁと少し大人になる」ために行われる“事実の肉体化”が、“レイプの被害者が被害に遭っているまさにそのときに自殺すること”であったり、“殺される前に逃げることだけはできたレイプ被害者がのちに自殺すること”なのなら、こんなに冷たい虚無主義はないですし、またもし「この事実を肉体化出来れば」が指しているものが私の次の表現
殺されるよりもつらい苦しみを殺される前に受け、そしてそのあとから本当に自分が殺される苦しみを現在まで変わらず受けさせられ続けているのが殺された被害者です。
であった場合の、(“日弁連が認識できている範囲の野蛮さ”のお話しと、殺された被害者はもう動くことも自ら何かを訴えることもできないお話しについてはすでにしましたが)“肉体化こそできてはいないが事実は事実”の存在が殺された被害者の思いのことであった場合だって、強姦魔に殺された被害者のご遺族や恋人たちが、殺された被害者の思いというご遺族や恋人たちの認識を、上の様な日弁連の死刑反対派に向け主張できているのなら、“肉体化”が必ずしも必須条件なのだとは言えない様に私には思えます。(認識している時点でそもそも“肉体”というのもありますが・・)
そして「揚げ足取りではありませんが、一つだけ。人は本当に辛ければ、直ぐに自殺しますよ。この事実を肉体化出来れば、人間の言葉や行動は究極的にはやはり無力で虚しいものだなぁと少し大人になることが出来ます。」の中の「事実」は実はただの皮肉で、本当はそんな“事実などない” ということの (殺された被害者もご遺族も恋人たちもその支援者もこんな認識などもってはいないということの)主張で「事実」と書かれていた場合ですが、全く仮の話しとしてこんな認識などもっているのは実は私だけだったとしましょう。それで私がこの私の認識から活動していくことが“人間の言葉や行動は究極的にはやはり無力で虚しいものだなぁと少し大人になることができる”ことにつながるのだとの主張だったとしたって、“すでに「究極的」な存在だったり認識に立っているか、あるいは少なくとも私とか私の周りの人とは違って「究極」に至ることのできる人からの助言だから・・”という風に、少ない言葉から納得することは私にはできません。
・・急いで書いたので脱線していたり混乱もあるかもしれません..。本当はもう長文は控えるつもりで前回のコメントをおえていたつもりだったのですが..すみません。。
TOMAS伍式 says:
10月 13, 2016
<何よりも死刑こそが一番野蛮だ>という認識は間違っている
私も同意です笑。
フルート says:
10月 16, 2016
すみませんずっと言い出しにくい感じになっちゃってたんですけど..経験上予想通りというかなんというかやっぱりあった脱線気味のところと混乱しているところがずっと気になっていて..せめて明らかに混乱しているところ(読んだ側の人にもかなりの高確率で混乱を招いてしまっているところ..)だけでも修正させて下さい。。
修正したいところ↓
“肉体化こそできてはいないが事実は事実”の存在が殺された被害者の思いのことであった場合だって、強姦魔に殺された被害者のご遺族や恋人たちが、殺された被害者の思いというご遺族や恋人たちの認識を、上の様な日弁連の死刑反対派に向け主張できているのなら、“肉体化”が必ずしも必須条件なのだとは言えない様に私には思えます。(認識している時点でそもそも“肉体”というのもありますが・・)
修正文↓
“肉体化こそできてはいないが事実は事実”の存在が殺された被害者の思いのことであった場合だって、強姦魔に殺された被害者のご遺族や恋人たちが、殺された被害者の思いというご遺族や恋人たちの認識を、上の様な日弁連の死刑反対派に向け主張できているのなら、“強姦魔に殺された被害者の肉体化”が必ずしも必須条件なのだとは言えない様に私には思えます。(認識している時点でそもそも“肉体”というのもあります・・)
です。
Guy Fawkes says:
10月 13, 2016
>この人物は罪を犯した。しかし国家は「法の支配」の名のもと、死刑によって人を殺すという
さらに大きな罪を犯しているのだからそれに比べれば、この人物の罪は軽い!
>国家が戦争や死刑によって人を殺すという絶対悪を合法化しているかぎり私たちはすべて無罪である!
…何といいますか、支離滅裂な二重基準や欺瞞的偽善という以上に
瀬戸内女史や日弁連の方々、大島監督の様な存在の根底にあるのは
「何故、人を殺してはいけないか」ではなく「どの様な殺し方ならば正当性を与えられるのか」
即ち「生まれ持ったもの、ないしは育った環境や状況の如何によっては人を殺す権利がある」
という前提の方がしっくりくると思われます。
佐藤先生のご明察通り、彼らにとって「国家の殺人」は許容できずとも「個人の殺人」には寛容であり、
「法秩序を遵守している人々」は忌むべき強者で、「そうでない人々」は救済に値する弱者。
万が一、他ならぬ自分達に危害が及んだ際に彼らの生き残り?は加害者の実相に拘らず
大多数の「殺したがる大馬鹿者共」へこの様な趣旨のご高説を披露するでしょう。
「法を守ることすらできない弱者に手を差し伸べる為に我々は存在する!
それを踏みにじる愚者共には極刑を求める『戦い』を希求するものである!」
欺瞞を重ねた存在はそれ以上の欺瞞を以って自己正当化を図らない保障が何処にありましょうか?
仮に私的制裁を横行させる本当の怪物〈アウトロー〉が現れた時ならば、
お得意の思考停止という退路もありますから…
玉田泰 says:
10月 14, 2016
そもそも、「殺したがるばかども」という言葉から連想されるのは誰か?
まともな頭で考えたら、犯罪者でしかあり得ません。死刑制度という実体が何処かにあり、殺意を持って自立運動しているとでも言いたいのでしょうか?
多分、国家が絶対悪だから、それと対立している自分達は絶対善と言いたいのでしょうね。そこには自分達も国家の一部を占めているという認識は完全に欠落しています。
主体性のない人とはまさにこういう人達ですね。