10月9日の記事

「『殺したがるバカ』が意味するもの」では

日本弁護士連合会(日弁連)のシンポジウムに寄せられた

瀬戸内寂聴さんのビデオメッセージを取り上げました。

 

死刑反対を唱える立場から

「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。

みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。

そして、殺したがるばかどもと戦ってください

と述べたアレです。

 

死刑制度は国家による殺人だから、ということらしいのですが

戦後日本において死刑判決を受けた者は

例外なく人の命を奪っている。

 

どうも国家による殺人のほうが

個人による殺人よりも

罪が重いらしいんですね。

 

しかるにこの論理を突き詰めると

国家によって殺された命のほうが

個人によって殺された命より価値がある

という話にもなりかねない。

 

なにせ罪の重さが違うんですから。

とはいえ、こんな形で命に等級をつけていいのか?

 

支離滅裂なダブルスタンダードにして

欺瞞的な偽善と呼んだゆえんですが

例によって、ここには興味深いパラドックスがひそんでいる。

 

瀬戸内さん流、

ないし日弁連流の発想にしたがうかぎり

国家が死刑制度を維持してくれるほうが

犯罪者を擁護しやすくなるのです。

 

この人物は罪を犯した。

しかし国家は「法の支配」の名のもと、

死刑によって人を殺すという

さらに大きな罪を犯しているのだから

それに比べれば、この人物の罪は軽い!

 

・・・こう主張できるじゃないですか。

 

いいかえれば瀬戸内さんや日弁連は

主観的には対立しているつもりの「殺したがるバカ」に

じつはどっぷり依存しているのです。

 

毎度おなじみ、「せい」と「おかげ」は紙一重というやつ。

 

事実、大島渚さんは

1968年の映画「絞死刑」

上記の主張をそっくり展開しました。

 

これは1958年に起きた小松川高校事件

(同名の定時制高校に通っていた青年・李珍宇が二件の強姦殺人を犯した事件。

李は1962年に死刑となった)

を題材にしているのですが

やはり死刑反対論者である大島監督は

作品のメッセージをこう語っています。

 

国家が戦争や死刑によって人を殺すという

絶対悪を合法化しているかぎり

私たちはすべて無罪である!

 

・・・なるほど、そうですか。

となると、国家が戦争や死刑をやめたらまずいことになりますねえ。

無罪を主張する根拠がなくなってしまいますもん。

 

ずばり戦争さまさま、

死刑さまさまではありませんか!

これで本当に死刑反対を主張しているつもりなんですかね?!

 

ついでに。

われわれがすべて無罪なのは大いに結構として

そう決めてくれる主体は何なのか。

 

死刑反対という文脈において語られている以上、

この「無罪」は的な判断でしかありえない。

しかるに司法は国家主権の一部。

 

そうです。

大島監督は戦争や死刑を「絶対悪」と位置づけ、

国家の「殺したがるバカ」ぶりを糾弾してみせる一方で、

ほかならぬ戦争や死刑の存在を根拠として

「殺したがるバカ」たる国家から無罪認定を受けたがっているのですよ!!

 

国家依存症としか形容しえない

この甘えっぷりは何事でありましょうか?!?

左翼・リベラルにも困ったものです。

 

国家が戦争や死刑によって人を殺すという

絶対悪を合法化しているかぎり

私たちは国家に保護を期待しないかわり

国家の支配も受け入れない自由と権利を持つ!

 

真の反国家主義者なら、こう宣言できなければ。

 

ちなみにこれが、

本来の意味における「アウトロー」の定義です。

法の支配の外にいるため、

法によって守られてもいないが

法によって裁かれもしない存在ということですね。

 

ただし。

法によって守られていない以上、

アウトローを殺したところで罪には問われません。

念のため!

 

ではでは♬(^_^)♬