さて。
(T)hose whose sentiments are injudicious,
or unfriendly,
will cease of themselves
unless too much pains are bestowed upon their conversion.
という英文を
浅はかな人間や
敵意を持った者は
転向することがたいして苦痛ではないなら、
おのずから考えを変えるだろう。
と訳すのが適切か、検討していきましょう。
最初の2行は問題ありません。
問題は3行目以下。
まず第一点、
Cease of themselves を「考えを変える」と訳して良いか。
Ceaseは「やむ、終わる、やめる」という意味です。
ならば cease of themselves は、直訳すれば「自分たち自身に関して、やめる」。
つまりは
姿を見せなくなる
ということです。
むろんこの場合、
姿を見せなくなるということは
独立戦争反対を主張しなくなる
ということですが・・・
考えを変えた結果、そうしたのだ
と判断すべき根拠、いずこにありや?
いいですか、ここで話題に上っているのは
浅はかな者や、敵意を持った者ですよ。
そんな連中が、論破・説得されたからと言って、
素直に意見を変えると思いますか?
形勢不利と判断して黙ることに決めた、
それだけのことではありませんか。
ゆえに!
「おのずから考えを変えるだろう」がまず不正確、というか実質的な誤訳。
したがって!
「転向すること」も不正確、というか実質的な誤訳。
つづいて4行目、
unless too much pains are bestowed upon their conversion.
という箇所を
転向することがたいして苦痛ではないなら、
と訳すことの問題について。
そもそも pain を「苦痛」と訳すところからしてヤバい。
複数形になっているときは、「苦労」「骨折り」「努力」などと訳すのです。
なぜか。
こういうときの pain は、
大変なこと
ではあっても
文字通り、痛みを感じること
ではない場合が多いから。
I have been at some pains to finish the work.
(仕事をすませるべく、努力を重ねてきた)を
仕事をすませるべく、多くの苦痛に耐えてきた
と訳して良いでしょうか?
つづきはまた明日。
ではでは♬(^_^)♬
9 comments
マゼラン星人二代目 says:
8月 17, 2014
>そもそも pain を「苦痛」と訳すところからしてヤバい。
>複数形になっているときは、「苦労」「骨折り」「努力」などと訳すのです。
英語での、複数形と単数形の明確な使いわけについては配慮が足りませんでした。
とは言うものの、「苦痛」という日本語の表現が、「苦労」や「骨折り」とさほど無縁とも思えないのですが。
とまれ、「苦痛」が物理的すぎるというのであれば、「苦心」ではいかがでしょうか。
「苦痛でなければ」→「苦心をともなわなければ」
マゼラン星人二代目 says:
8月 17, 2014
>とは言うものの、「苦痛」という日本語の表現が、「苦労」や「骨折り」とさほど無縁と
>も思えないのですが。
現に、いわゆる「心労」のことを、「精神的苦痛」などと言ったりするではないですか。
「苦痛」が常に単なる生物学的な現象しか意味し得ないなら、こういう比喩表現すら成りたつ余地がなくなる。
マゼラン星人二代目 says:
8月 17, 2014
>「おのずから考えを変えるだろう」がまず不正確、というか実質的な誤訳。
なるほど、戦っても人は変わらない。論敵自身の本心が変わるまいが変わるまいが、どうでもよい。
それよりも、巷の反対論から大衆的な説得力を奪い、主張に勢いが失われれば、原著者にとって自著の目的が果されたことになるわけです(“the triumph of a pamphlet”)。
それはわかりました。
だからといって、ただちに、
>したがって!
>「転向すること」も不正確、というか実質的な誤訳。
ということにはならないでしょう。
「転向」という日本語への理解にもよりますが。
内心の如何にかかわりなく、表向きの意見や態度が変われば、それは「転向」と言うのだ、というのが私の理解です。
したがって、
「形勢不利と判断して黙ることに決めた」
という選択も「転向」の一種としてあり得ると思います。
マゼラン星人二代目 says:
8月 17, 2014
>そんな連中が、論破・説得されたからと言って、
>素直に意見を変えると思いますか?
あるいは、
「わかりません。原著者に聞いてください」
というのが、もしかしたら、一番正しい答えかも知れません。
マゼラン星人二代目 says:
8月 19, 2014
もしかしたら、説得できると(案外素朴に)信じていたのかも知れない。
とはいえ、それを(小松訳のように)訳文に反映させるのは、確かに勇み足でしょう。
だから、実際の訳文は、やはり、「黙る」とか「降りる」とかの方向でいいと思います。
マゼラン星人二代目 says:
8月 17, 2014
「おのずから考えを変えるだろう」→「これ以上、自説を声高に主張することもなくなるだろう」
ではいかがでしょうか。
もー(理系の学生) says:
8月 17, 2014
「可算は1つ1つが意識されるときに使う」と学んだので、いくつかの出来事や場面を意味しない「苦痛(痛み)」は適切ではないと思います。
日常生活や大体の意味が通じればいい場合では、pains の訳は「苦痛」でよいのではないかと思います。外国人や子供が「苦労」のことを「苦痛」と言ったとしてもわかるので。しかし、職業等で普通の人より日本語に関わる人達もこうであっては、言葉の貧困化につながります。
小松春雄訳にはtoo「(否定の意味が表れる程)度が過ぎて」の意味が含まれていないのではないでしょうか。小さな誤解・ズレを無視しているように思えます。
私は「彼らの転向に(不可能な程の)過大な苦労が費やされること、これがないならば、彼らは彼ら自身を止めるでしょう」と訳しました。私の日本語は変ですね…。佐藤健志訳はきちんと翻訳できていると思います。
マゼラン星人二代目 says:
8月 17, 2014
(日本語の)「苦痛」と「苦労」について、少し考えてみました。
「苦労」は、何らかの能動的な活動に対する反作用として生ずる。(その際、当の「能動的な活動」自体が不本意であるか否かは不問)
「苦痛」は、活動(への反作用)とは関係なく与えられうる。したがって、受動的にも発生じうる、というより主として受動的に生ずる。
こうしてみると、まさに、「労」と「痛」の違いに対応してます。
しかし、これが英語での”pain”と”pains”の使いわけの指標になっているのかは、わかりません。
マゼラン星人二代目 says:
8月 17, 2014
誤「受動的にも発生じうる」→正「受動的にも生じうる」