宮沢賢治の傑作のひとつ

「銀河鉄道の夜」には

幻想四次というフレーズが出てきます。

 

賢治は「南十字星」のことを

南十字と書いたりもしたので、

幻想四次も

「幻想四次元」を意味するのでしょう。

 

そして宮沢賢治自身が

まさに四次元的な幻想の中に生きた人であることは

作品が示すとおり。

 

銀河鉄道とは

じつは死者の乗っている列車でもあるのですが

賢治の手にかかると

それが不気味なものでも

恐ろしいものでもなく

穏やかで優しいものになる。

 

彼の世界では

生と死の境界も曖昧なものだったのではないでしょうか。

 

松本零士さんの代表作

「銀河鉄道999」

明らかに「銀河鉄道の夜」がヒントになっているものの

「限りある命の賛歌」というテーマが打ち出されていることもあって

このような感覚は出ていませんでした。

 

だから「銀河鉄道999」はダメというのではありませんよ。

宮沢賢治さんの世界観、

あるいは彼の感性は

それだけ独特のものであり

かつ時代を超越したところがあったということです。

 

生前、ほとんど評価されなかったのも

その意味では仕方ないことかも知れません。

 

事実、昨日の記事でも触れたとおり

宮沢賢治作品を読んでいると

この人は、自分が何を書いているのか

自分でも本当には分かっていなかったのではないか?

と思うことがあります。

 

というか、ご本人がずばり認めている。

「注文の多い料理店」の序文には、収録された童話の内容について

こう書いてあるのです。

 

かしわばやしの青い夕方を、

ひとりで通りかかったり、

十一月の山の風のなかに、

ふるえながら立ったりしますと、

もうどうしてもこんな気がして仕方ないのです。

 

本当にもう、

どうしてもこんなことがあるようで仕方ないということを、

わたくしはそのとおり書いたまでです。

 

何のことだか、

わけの分からないところもあるでしょうが、

そんなところは、

わたくしにもまた、

わけが分からないのです。

(表記を一部変更)

 

これについては、

自分でも分からないことを童話にするはずがない。

一種の謙遜ではないのか?

という見解もありますが、

私は文字通りに解釈すべきだと思います。

 

宮沢賢治さんは

普通の人間には見ることのできないものを見たのです。

幻想四次という名称の通り、

そこでは現実と幻想の境界も

過去と未来の境界も曖昧。

 

だから本人も、

自分が何を見ているのか

じつは分からないところがあった。

 

しかしそれらの幻想四次は

少なくとも賢治にとって、

日常の現実と同じくらい

あるいはそれ以上にリアルなものだった。

 

そのため彼は、自分が見たものを童話という形で書かずにいられなかった。

大人向けの小説にしてしまったら、

リアルでないと言われるのがオチですからね。

 

言いかえれば宮沢賢治の作品は

童話の形式こそ取っているものの、

決して、いわゆる子供向けではない。

そのせいで生前には理解されなかったが、

まさにそれゆえにこそ、今なお生きつづけている。

 

天才はしばしば、不遇な生涯を送ると言われますが

私は「不遇な天才」は存在しないと思っています。

 

天才は時間を超越した、幻想四次の世界の住人だから。

 

生前、不遇な天才はいますよ。

しかし時間を超越している以上、

それはさしたる問題ではない。

地上の時計が、幻想四次の時計に追いつくとき、

不遇のまま消えていったかに見える天才は甦り

われわれの世界にあらためて、不動の位置を占めるのです。

 

それがつまり、生と死の境界が曖昧ということではないでしょうか?

 

ではでは♬(^_^)♬