3月24日の記事

「矛盾に満ちた戦後保守の『ゴマカシ』を暴く籠池証言のインパクト」では

例の森友学園騒ぎをめぐる私の論考について

産経デジタル「iRONNA」編集部が

私が当初つけたものと比べても

保守批判の要素を強く持ったタイトルをつけた

ことをお伝えしたわけですが・・・

 

論考をご覧になりたい方はこちらを。

 

あの水島社長も吠えました。

3月24日の「直言極言」においてです。

 

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森友学園の運営する塚本幼稚園のサイトに

昭和天皇が幼稚園を訪問されたことがあるという

ウソの記事が出ていたのを批判しているのですが、

社長はこう嘆いています。

 

私たちの言う戦後保守は一体何だったんだろう。

 

(愛国的なふりをしているだけとしか思えない)

こんな連中が、ハッキリ言ってウジャウジャいるわけであります。

 

われわれはこの、

本当に絶望的な情けない

左翼にも劣るような、こういう連中がいるということに、

あらためて目の当たりにしたわけであります。

 

動画はこちら(10分50秒目あたりからをどうぞ)。

 

ヾ(℃゜)々\(◎o◎)/左翼にも劣るような、こういう連中\(◎o◎)/(゜ロ)ギョェ

 

それはまあ、左翼にだって

立派な人は存在するに決まっているのです

水島社長がここまでおっしゃるとは。

 

だ・か・ら、

『右の売国、左の亡国』と言うのですが

関連して、ご紹介したい話があります。

 

1946年3月、『新日本文学』誌が組んだ特集

「八月十五日の記」に含まれていた

上司小剣(かみつかさ・しょうけん)さんという作家の述懐。

 

上司さん、明治後半には読売新聞に勤め、

論説委員や編集局長にまでなった方ですが

日露戦争のときの国内の雰囲気について

こう述べているのです。

 

(当時は)国民がみだりに敵国人を罵ることを悪徳とし、

互いに相いましめた(=戒めあった)ものであった。

 

それどころか、政府からもこんなお達しがあったとか。

 

国と国とは国際上の利害によって戦いを交えているが、

国民と国民とには、

個人としてなんの恩怨(=感情的なこだわり)もないのだから、

いわれなき漫罵(=むやみに罵ること)は、

大国民の襟度(=度量)でない。

(表記を一部変更、以下同じ)

 

このお達しを受けた上司さん、

戦争しているからといって、

むやみにロシアを罵倒するのはみっともないからやめろ

という論説を書いたそうですが

明治の日本人には立派な見識があったものです。

 

ところが、話はこう続く。

 

今度の戦争(大東亜戦争)では、それと全くちがって、

初めから

“敵を憎め”

“敵を罵れ”

“まだまだまだ罵り足らぬ、憎み足らぬ”で、

いまとなっては、

否、そのときでも

心あるものには、気恥ずかしかった。

 

上司さん、こんな罵倒を聞くにつれ

「これで勝てるかなァ」と思ったらしい。

無理もありません。

 

そこまで精神的な余裕をなくし

目を吊り上げずにはいられないこと自体、

自信のなさを白状しているようなものだからです。

小物ぶり丸出し、というヤツですね。

 

しかるに現在の保守派は

日露戦争当時の日本人と

大東亜戦争当時の日本人、どちらに近いか?

 

みんながみんな、そうだとは言いませんが

中国・韓国への漫罵、

あるいは左翼やら「反日マスコミ」 への漫罵を見ると

残念ながら、全体としては後者ではないでしょうか。

 

日本の偉大さ、素晴らしさを謳っていながら

明治政府言うところの

「大国民の襟度」が備わっていないのです。

 

しかるに大国民の襟度がないくせに

襟度があるかのごとく振る舞おうとすれば

ボロが出るのは避けられない。

 

だから水島社長に

左翼にも劣ると言われてしまうのですよ。

 

左翼は日本人が「大国民」として振る舞うことに否定的なので

大国民の襟度があるようなふりもしない。

つまりは自分を偽らないぶん、

むしろマシという話になってしまうのです。

 

だ・か・ら、

 『右の売国、左の亡国』と言うのですよ!

 

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ちなみに

“敵を憎め”

“敵を罵れ”

“まだまだまだ罵り足らぬ、憎み足らぬ”

という態度と

「敵への心理的依存と思考停止に関する平松テーゼ」Ⓒとの共通性は

もはや明らかでありましょう。

 

ではでは♬(^_^)♬