新日本経済新聞に書いた記事

「『国民を見捨てない国』の大事さ」に関連した話を。

 

この中で、

戦前の日本には国家への信頼感があったが

戦後にはそれが失われてしまった という

映画監督・大島渚さんのコメント

(エッセイ「<パパ> この健気な英雄」より)を紹介しました。

 

しかるに大島さん、

同じエッセイで、こんなエピソードも披露しているのです。

 

1932年生まれの大島さんは

小学生のとき教師からこう教わります。

 

日本の子どもはすべて、天皇陛下の子どもである。

だから陛下のためにも勉強し、身体を鍛え、

戦争の際には死を覚悟で戦わねばならんのだ。

 

するとです。

いつの時代にも、生意気なガキはいるもので、

こんな質問をする生徒がいたらしい。

 

そうかえ、わいら陛下の子どもかいな、

ほんなら腹減ったら、陛下に食べさしてくれいうたらええわけやな・・・

 

関西弁なのは原文のままです。

 

これにたいし、教師はどう答えたか。

大島さんによれば以下の通り。

 

そうである。

陛下は君たちひとりひとりの腹の減り具合まで、

ちゃんと知って心配してくださっている。

だから君たちは、陛下にご心配をかけないように

腹が減っても辛抱しなければならんのだ!

 

このエピソード、こんなコメントで締めくくられます。

 

年少の読者諸君よ。

阿呆な論理の遊びと言うなかれ。

たしかに当時の少国民たちの心は

自分は陛下の赤子(せきし)であるということで支えられる部分もあったのだ。

(大島渚「魔と残酷の発想」、芳賀書店、1971年。表記を一部変更)

 

国家への信頼感とは、

こういうやりとりが成立することではないでしょうか。

 

エドマンド・バークは「フランス革命の省察」において、

騎士道のすぐれた点は

身分秩序を乱すことなく、社会全体に「高貴なる平等」と呼ぶべきものをもたらすこと

と論じましたが、

くだんの平等の背後にあるのは、このような信頼感だと思います。

 

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平等が、高貴でもありうるというのは素晴らしいですね。

ではでは♬(^_^)♬