5月10日の記事
「先入観を大事にするとは」では
エドマンド・バークの名著
「フランス革命の省察」に登場するフレーズ
イギリス人は prejudice を大事にする
について取り上げました。
同書の日本語版の中には
この言葉 を「先入観」と訳したものがあり、
それはそれで誤訳ではないのですが
バークの議論の文脈に照らして検討するとき
「固定観念」と訳すのが
もっとも適切だと考えます。
何によらずそうなのですが
間違っているわけではない
という状態と
これこそ適切だ
という状態の間には
けっこうなギャップがあったりするのですよ。
それはともかく。
固定観念を大事にするとは、ならば具体的にどういうことであるべきか?
じつは三つの段階があります。
1)長らく確立されてきた考え方や習慣について、ただ古いというだけで否定しない。
「古い」「昔からある」ということは
それ自体としては何らマイナスの意味合いを持ちません。
むしろ、それだけ長期にわたって受け入れられてきたということは
学ぶべきものがある可能性が高い証拠だと思うべきなのです。
ところが「進歩」とか「改革」の概念に取り憑かれると
何かが「古い」というだけで
もう全否定して構わないような錯覚に陥る。
戦後に限った話ではありません。
戦前の富国強兵だって
明治維新以前のものはすべて古く、
ゆえに否定してよい
といわんばかりの発想で遂行されたのです。
保守派のセンセイ方には都合の悪い話ですが
近代日本はもともと相当に左翼的なのですよ。
ここを改めずして、歴史や伝統の再発見などできるはずがない。
というわけで「古い=ダメ」の短絡的発想を捨てる。
これが第一段階。
次は・・・
2)長らく確立されてきた考え方や習慣については、
非合理的でデメリットだらけに思えても、
何か隠れたメリットがあるのではないかと構える。
ここで重要なのが、
物事を「効率」の尺度で割り切ろうとしすぎないこと。
「非効率=ムダ=ダメ」という短絡的発想を捨てると言ってもいいでしょう。
ムダとは「ゆとり」「余裕」でもあるのですぞ。
それを毛嫌いするようで、どうやって豊かになるんですかい?
わが国が貧困化の道をたどりはじめた20年ぐらい前から
何かにつけて「非効率を改める」だの
「ムダをそぎ落とす」だのと叫ばれるのは
その意味で偶然ではありません。
ただしその発想で改革を続けるかぎり
ブラック化と貧困化の連鎖という
「底辺へのスパイラル」が待っていると申し上げておきましょう。
以上、第二段階。
そして・・・
3)長らく確立されてきた考え方や習慣を否定する際にも、
「当該の考え方や習慣自体は間違っているが
それらが長らく続いてきたことからは、何か学ぶべき点があるのではないか」
と構える。
おなじみ絶対平和主義を例に取りましょう。
これは安全保障政策の放棄であり、
国のあり方として適切ではありません。
しかし、ならばなぜ
そんなムチャクチャな発想が長らく生き続けてきたのか?
日本人にアホが多いからか?
占領軍によるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムのせいか?
それとも国際共産主義の陰謀か?
・・・『僕たちは戦後史を知らない』や
『戦後脱却で、日本は「右傾化」して属国化する』を
お読みになった方には、
むろん本当の理由がお分かりでしょう。
そうです。
戦後日本人の少なからぬ部分が
絶対平和主義を信奉した真の理由、
それは絶対平和を主張することが
敗戦後もナショナリズムを打ち出すことに通じていたからなのです。
つまりここから学ぶべきは
絶対平和主義そのものが間違っているのは当然として
「絶対平和主義を信奉する姿勢」を安易に否定するのは
ナショナリズムの否定にも通じてしまうのではないか?
という点。
論より証拠、
「現実的な安全保障政策」を主張する保守派(の大半)は
いかに口でナショナリズムを唱えようと
対米従属肯定にズルズル流されるばかりではありませんか!!
・・・この現実に目をつぶり
「九条信者はお花畑のバカ」とか
自己満足にひたっている連中を待ち受けているのは
自滅への道あるのみと言わねばなりません。
だ・か・ら
『右の売国、左の亡国』と言うのですよ!
しかり、
固定観念を大事にすることこそ
じつは柔軟で自由な発想への道なのです。
バークの叡智には、じつに深いものがあると言わねばなりません。
ではでは♬(^_^)♬
13 comments
GUY FAWKES says:
5月 12, 2017
素晴らしい指摘です、本記事は前回の「先入観を大事にするとは」と併せてこれから保守に関わらず
思想や歴史・文化を学ぼうとする人全てに一読していただきたいくらいに要諦が明瞭かつ簡潔に述べられております。
>戦後に限った話ではありません。戦前の富国強兵だって明治維新以前のものはすべて古く、ゆえに否定してよいといわんばかりの発想で遂行されたのです。
>保守派のセンセイ方には都合の悪い話ですが近代日本はもともと相当に左翼的なのですよ。ここを改めずして、歴史や伝統の再発見などできるはずがない。
極めつけはこちらです。
佐藤先生を含め表現者で連載を持たれている先生方ぐらいしか共通認識にはなっていませんが、
「近代化の無条件肯定、ないしは省察逃避」という点では保守、左翼・リベラルは足並みを揃えるに至っているのです。
「グループ1984年」しかり「九条の会」しかり…
公共事業費を筆頭として、積極財政を保革共に考えることもなく否定的な点も然もありなん。
ホワホ says:
5月 12, 2017
統計学で言う事前確率ですね。
(正確にはベイズ統計、この場面で意味がある正確さとは思えませんが)
福岡ワマツ says:
5月 13, 2017
記事を拝読しながら、「『大事にすべき固定観念』と言われて、思い付くのは『言葉』かなぁ」と考えておりました。
なぜなら、言葉は私が生まれる遥か昔から存在し、古人により慣用されることで固定した意味を持つに至っているからです。特に成句や諺はその性質が強いです。
そのように考えるが故に、「言葉が見方を教えてくれる」という側面があるように感じております。
それはどういうことかと言えば、例えば次のようなことです。
仮に「我々にはこの道しかない、前進あるのみ」と唱導する指導者Aがいるとします。
そこでA氏を評するにあたり、次の二つの言葉により少なくとも二通りの見方が有り得ることを教えてくれるというわけです。
一つは、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という言葉から、剛毅果断な実行力のある人物として是とする見方。
もう一つは、「急がば回れ」という言葉から、短絡的な思考により別の道を模 索しない(できない)、短慮な人物として非とする見方。
人物評価の結論はさておき、それらの言葉から古人により固定された見方や観念を教わるというわけです。
このように考えて参りますと、もし仮に、言葉が大事にされない時代が到来したときにはどうなるか。思うに、言葉の誤用によって認識があべこべになる。そんな気が致します。
例えば、革新が保守とされたり、従属が独立とされたり、破壊が創造とされたりする。
そんな「あべこべ時代」の風が吹くときが来ないことを祈りつつ、記事を拝読いたしました。
玉田泰 says:
5月 14, 2017
このコメントを読んで最初は反発しました。
「言葉」は思考(引いては文化・文明)の基盤であり、「固定観念」だってその一部じゃないか、と思ったからです。でももう一歩踏み込んで考えると「言葉」って「観念」を「固定」する為の道具かな?とも思いました。何かをごっちゃにしていて混乱していると思うのですが、ワマツさん、指摘して頂けませんか?
福岡ワマツ says:
5月 14, 2017
>「言葉」は思考(引いては文化・文明)の基盤であり、「固定観念」だってその一部じゃないか
ええ、仰る通りだと思います。
ただ、私が先のコメントで申しましたのは、「言葉」と「固定観念」との包含関係ではございません(包含関係については玉田泰さんの仰る通りかと存じます)。
そうではなく、先のコメントの冒頭では、『大事にすべき固定観念とは一体何だろう』という疑問から『例えば…言葉かなぁ』との考えが心に浮かんだことを素朴に申し述べただけなのです。
>「言葉」って「観念」を「固定」する為の道具かな?
玉田さんが仰るように、言葉には道具としての側面があります。
且つ、言葉には心としての側面もあると思います。それを重視し、私は言葉を大事にしたく思うのです。
古人とともに生きた言葉が、その心を私に教えてくれる。尚且つ、言葉は私とともに心として生きている。だから言葉を大事にしたい。
そのような思いがありましたので、先のコメントを投稿いたした次第です。
玉田泰 says:
5月 15, 2017
丁寧なご返答ありがとうございます。
ワマツさんの思いが察せられた気がします。
ただ今度は僕自身の混乱の原因が分からなくなりました。
先生、解説して頂けませんか?
SATOKENJI says:
5月 15, 2017
人間はたいがい、言語を通じて固定観念を形成します。
(※)音楽や視覚的イメージも固定観念形成に貢献することがありますが、ここでは脇に置きます。
その意味では「固定観念ならば言語」ですが
だからといって「言語ならば固定観念」とは必ずしもなりません。
固定観念を崩すような言語の使い方もありうるからです。
混乱はここから生じたのではないでしょうか。
メイ says:
5月 13, 2017
本当、その通りですよね・・。全く仰る通りだと思います。
せい says:
5月 14, 2017
>それは絶対平和を主張することが
>敗戦後もナショナリズムを打ち出すことに通じていたからなのです。
昔よく、9条を理由にすれば、アメリカのいいなりで戦争に巻き込まれずに済むといっていましたね。戦争した相手国ですから、反米意識が強く、自主性を保とうという気運が残っていたのでしょう。ある意味健全なナショナリズムの発露といえます。
時が経ち、反米意識が薄れてきた結果、軍事面で安全保障で脅され経済面でやられっぱなしのデフレの現状に、次の世代が我慢できなくなって、当のアメリカ相手に、他力本願な富国強兵を試みているという歪んだ現状、という感じでしょうか。
●●漫画で例えるなら、捕らえられた誇り高い女性が、屈強な男に●●されながらも「絶対に屈しない」と気丈に振る舞うも、最後には「●●には勝てなかったよ…」と屈する感じですかね(取り消し線)
半ライス大盛 says:
5月 15, 2017
『言葉』は、『固定観念』を生んでしまう宿命があると思います。
例えば、道端に花が咲いているとします。そこを通り過ぎる際に、「ああ、花だな」と
言葉に置き換えたら、花そのものを良く見る事なく、意識からも消えてしまいます。
このように、物事を言葉に置き換えて、分かった気になり意識をさせないような作用が
言葉にはあると思います。
しかし、不思議な事に、『桜』については、どうでしょうか?
「ああ、桜だな」と通り過ぎる方もいるかもしれませんが、つい足を止めて
見事だなぁとか、今年は少し早く咲いたなぁ、とか暫し見とれる事があります。
足を止めて、美しいなぁと心が動く事で、初めて桜を「見る」事をし、
この場合は、言葉で理解したものではありません。(勿論認識という意味では
桜と理解はしますが)
それに比べ、心が動かない若しくは、感動が伴わない場合は、
花・木などと言葉で認識し(分かってしまい)物事を
しっかり見る事なく、分かったような気になると言う
固定観念を醸成する事もあるのだと思います。
だからと言って、言葉が固定観念を起こす ”悪しき物” であるかと言うとそういう
訳ではないと思います。
例えば、会社で良くみられる事を例にとると、
職場で移動してきた人が、赴任した日の朝に職場の朝会などで挨拶などしますが、
月並みな言葉で、誰もが業務が始まれば何を言ったか忘れてしまう事が常ではないでしょうか?
しかし、定年退職の方が、挨拶に来られて、色々と厳しい事を言ったが、君にはお世話になった
有難う。などと言われると、言葉は月並みではありますが、心に残る事があります。
心に残らない言葉は、用件を伝えるだけの道具としての言葉で、後々忘れがたい言葉は、
心が通じたときに発する感動が「言葉」を通じてなされたという事だと思います。
言葉そのものは、意思を伝えたり、感動を伝えたりする道具であり、
問題はそれを扱う人が如何に心をそこに込めるかなのではないか?と思います。
と偉そうな事を書きましたが、ほとんどが「小林秀雄」先生の受け売りであります!
(勝手な解釈ですが)
言葉は、固定観念を誘発しますが、言葉も使う人次第。
物を見る目を持てば、固定的な観念なのか? 実は無常の観念なのか?
色々と違って見えるのではないでしょうか?
物を見る目を持つ事は、それはそれは、大変苦労しながら
修行の如く専心し、ようやく得られるものであると小林秀雄先生は仰っておられました。
玉田泰 says:
5月 16, 2017
大変、勉強になりました。
小林秀雄さんを憶えておきます。
所で、先生のコメントに「返信」
がないのは何故でしょうか?
玉田泰 says:
5月 17, 2017
重ねて質問します。
「返信」ボタンが見当たらないのは
先生の意図的なものでしょうか?
SATOKENJI says:
5月 17, 2017
そう言えばありませんね。今気づきました。
コメントをアップしなおしてみましたが、やはり出ません。
なぜ「返信」が表示されないかは不明です。
仕事が一段落したら、サイト設計者に聞いてみましょう。
とはいえ「意図的なものでしょうか」って、そもそも消し方を知りませんよ(笑)。