「北の国から」の脚本家・倉本聰さんが、
毎日新聞にこんな文章を寄稿しました。
題して、「林中無策:空しい」。
安保法案が想像通り、想像されたシナリオ通り通ってしまった。空(むな)しい。
憲法学者も元最高裁判事も、全ての権威が無視されたのが空しい。
雨にぬれながら懸命に叫ぶ人々の声が無視されたのが空しい。
対立する意見に真剣に、耳を傾けようとしない政治家が空しい。
選挙の時の低姿勢と、バッジをつけた時の高姿勢と、その落差に本当に気づいているのか。選挙民を無視する議員たちが空しい。
と、こんな調子で
安保法制成立について嘆いておられます。
倉本さんの嘆きは
国会議員のあり方から、
自民党のあり方、
安倍総理の姿勢、
乱闘のさなかの採決にまで及ぶ。
で、最後には
全てが空しくて考えるのをやめる。
テレビを消して窓の外を見る。
窓外は森。夏から秋に移りかけている。
そこには太古からの変わらぬ営み。植物、動物、鳥に昆虫。
彼らはうそも策謀も用いず、自制の中で共存している。
という、エコロジー的なオチがつきます。
・・・なるほどなるほど。
しかし倉本さん、
とにかく「空しい」を連発してばかりいるご自分については
べつに空しいと思っていないようです。
このすべてを止めることのできない自分の非力が空しい。
そういうふうには考えないんですね。
ついでに倉本さん、
国会議員(とくに与党系)のあり方をさんざん嘆いていますが
そんな議員を選んでしまう一般有権者のことも
やはり空しいと思っていないようです。
先の引用から、この一文をご覧ください。
選挙の時の低姿勢と、バッジをつけた時の高姿勢と、その落差に本当に気づいているのか。選挙民を無視する議員たちが空しい。
選挙の前後で
議員たちの姿勢に落差がありすぎるとして、
私の感覚からすると、それに気づくべきは選挙民なんですよ。
ところが倉本さんは、そうは考えない。
文脈から判断して、
「その落差に本当に気づいているのか」と言われている相手は
当の議員たちなのです。
・・・こう言っては何ですが、
このポエムじみた文章で倉本さんが真に主張されているのは
人の世はすべて空しい
などということではなく
今の政治のあり方は空しいが、それを嘆いている自分と、一般国民は素晴らしい
ということだとしか思えません。
つまりは絶望を気取ったナルシシズム。
空しくて考えをやめる(ふりをする)前に
絶望するなら、ちゃんとしろ!!
謹んで、こう申し上げたいと思います。
ではでは♬(^_^)♬
5 comments
囚人のジレンマ says:
10月 8, 2015
ご主張に共感します。
当方大阪市民ですが、政治家のレベルが低いのだとすれば、それは「我々」国民(市民)のレベルが低いからだ、という現状認識から出発しなければ、我々の政治(的発言)は、それこそ空しい居酒屋談義にしかならん気がします。
kuppo says:
10月 8, 2015
倉本聡は作風から保守っぽくて好きだったんですが、
この偉大な作家に関わらず、思想と作品の感動は別物
なのでしょうか?
美しい作品が多数あれど、その作者の思想が一般大衆と
同等というのは、その落差に驚愕するばかりです。
いや、一般大衆と同じだから作品が美しくなるのでしょうか???
せい says:
10月 8, 2015
自然は騙し騙されの弱肉強食だと思う
SATOKENJI says:
10月 8, 2015
少なくとも「人間以外の生物はみな自制しあっている」というのは、ロマンチックな誤解の部類に入るでしょうね。
フルート says:
10月 8, 2015
自分がまだちゃんと存じ上げていない方に対して
正しく意見を言う事なんて、そもそも最初から出来ない事なんだと
それだけは理解できているつもりなのですが・・
それでも倉本聰さんの「自制」という言葉に、
(私も現政権には反対の意見ですけれど・・)
私は少し違和感を持っています。
例えば心臓は心臓の為に動いていると言うより、
心臓は自身(心臓)より大きなもの(体全身)の存在を分かっていて、
その存在の為に自分の全身を動かし続けている様に、
植物や動物も自分の全身で活動しながら且つそうした自分の全身を
感覚できているからこそ、自分より大きなものの存在を分かる事ができるし、
その存在に共感したり現在の自分に現在の自分が対抗して行く事もできる。
そしてそういう体の用い方・そういう記憶の仕方に普遍性がある、
そういう言い方だって出来るんじゃないかなと思います。
(・・まだ説明に成っていない事は自分でも感じています・・)
倉本さんの書かれ方ですと
全身で感覚して全身で活動している自然が「自制」していて、
倉本さん自身も「自制」をされている・・
と言う様に読めるので・・
倉本さんのこの書かれ方ですと
実は倉本さんが世の中を本当に分かろうとしている事の証明には
やっぱり成っていない様に私は感じるんです。。
(・・できる限りがんばって説明を試みますと・・)
シールズの存在も指しての事だったのかどうかも含めまして
「雨にぬれながら懸命に叫ぶ人々」の事についてなのですが、
「懸命に叫ぶ」事、と、全身で活動しながらそうしている全身を感覚できている事
(≒全体が感覚されている事)とは必ずしも同じではない筈だと思うんです。
人間は植物や動物をとくに用いるor用いてしまう側ですから、
当然その用い方には注意をするのと同時に、
その様な注意された用い方をしている人間である自分自身に対する
他者からの用いられ方についても注意せざるを得ない筈です。
すると結局、人間の自分自身による自分自身への用い方・その感覚の仕方・
生き方には、動植物以上の厳しさが求められて来る筈なんだと思うんです。
そしてそれが出来ていて初めてより良い方向を目指せたり
より良い存在に共感できたりより良い存在から共感されたりするものが
歴史性として継続して来て、そこに現政権と反対派両方についての
意見としての正当性が出て来るものなんじゃないかなと思う訳なのです。。