先週のチャンネル桜
「闘論! 倒論! 討論! 追悼 西部邁と日本」
でも述べたとおり
西部先生の最期が自殺という形を取ったことについて
私は正直、
保守主義者としての思想的破綻だと思っています。
番組をご覧になりたい方はこちら。ただし、キレイゴトや認知的不協和としか思えない発言も見られます。
なぜ破綻していると考えるのか?
保守主義は
1)人間の理性(つまり判断力)の限界を自覚し
2)社会や歴史の連続性を尊重する
ことを身上とする思想です。
しかるに自殺は
自分の判断に基づいて、自分の生命の連続性を否定する行為。
そしてG・K・チェスタトンの言うとおり、
これは本人の視点に立てば
自分の判断に基づいて、目の前の世界の連続性を否定する行為
となります。
もっと具体的に行きましょう。
西部先生の自殺によって、
お嬢さんや息子さんがショックを受けなかったはずはない。
言い替えれば、西部家の連続性は打撃を受けます。
つづいて藤井聡さんをはじめとする「表現者クライテリオン」の編集部、
および同誌の執筆者にとっても、これは少なからぬショック。
先生は自分が退いた後、
どんな言論が展開されるかを見届けようとしなかったんですからね。
言い替えれば、表現者系の言論の連続性も打撃を受けました。
そして西部先生がわが国の保守派の中で占めた位置を思えば
保守派の連続性も打撃を受けたのは明らかでしょう。
そのような行為を、保守主義に適ったものと呼べますか?
自殺は単に一つの罪であるばかりではない、
それこそ罪の最たるものである。
このうえない、
そして全く酌量の余地なき罪であり、
生命そのものに感心を持とうとしない態度、
生命にたいする忠誠の誓いの拒否なのである。
ちなみにこれについては
チェスタトンがキリスト教徒(カトリック)だったことを指摘し、
西部先生がチェスタトンやキリスト教の教理を全面的に支持するいわれはないのではないか?
という見解も寄せられました。
しかし、そういう話ではありません。
なぜか。
1)先の引用は「正統とは何か」(1909年)からのものだが、
チェスタトンがキリスト教的歴史観を強めるのはカトリック改宗後である。
そして改宗がなされたのは1922年であった。
2)西部先生は生前最後の著作となった『保守の真髄』でも
みずからの立場を擁護する形で、チェスタトンを引き合いに出している。
チェスタトンの言葉の中には、「座右の銘」としているものまであったとのこと。
にもかかわらず、自殺にたいする見解(だけ)は支持しなかったと見なすのは、
それ自体が先生の思想的一貫性にたいする否定だろう。
3)だいたい、保守主義と自殺の矛盾をめぐる私の見解は、キリスト教と関係なく成立する。
しかるに豆腐メンタルさんから、次のような疑問が。
保守主義者の持つべき生命観として、個人の命または生命に対しても、連続性を重要視すべし。
ここまでは理解出来ます。では。。
ある保守主義者の命または生命は、連続性が重要なので、自らの裁量の範疇(に)あるととらえてはならない。
ということなのでしょうか。
仮にそうとすれば、命または生命が観念に限定されたように思えてきます。
死と同じく生も、本来的にアンビバレントである、と私は考えております。
つまり割り切ることができないものと考えております。
また、保守の思想には実際も重要であるし、また科学も重要であると考えてみると、観念の限定を受け入れることが難しいのです。
プラグマティックな死と生の在り方との関係性、ということになるのでしょうか。。どう考えるかをご教授ください。
(カッコは補足)
「命または生命が観念に限定された」
というのは、
いかなる意味か分かりにくいのですが、
かりにこれを
そこまで自殺を否定するのは
「とにかく命あっての物種」という生命至上主義に通じるものであり、
生命以上の価値の存在を否定するものではないか?
という意味に取れば、
豆腐メンタルさんの疑問はもっともです。
自殺肯定は「世界の連続性を理性で否定すること」の正当化につながる。
自殺否定は「生命以上の価値の存在を否定すること」の正当化につながる。
このジレンマをどう解消するのか?
じつはここから、
保守主義者が自殺する条件が浮かび上がります。
すなわち
自分の生命の連続性を否定することが
より大きな連続性の肯定につながると判断しうるときにかぎって、
保守主義者の自殺は許されるのではないか。
当該の判断は
1)その社会の通念、ないし常識(コモン・センス)から見て健全であり、
2)ゆえに歴史や伝統にも裏打ちされている
という特徴を持たねばならないものとします。
これならば「プラグマティックな死と生のあり方の関係性」と呼んで良いでしょう。
たとえば特攻隊員の死は
この基準に照らして、保守主義的に肯定できる。
自分の死が
家族や社会、祖国を守ることに資するという形で
より大きな連続性の肯定につながるからです。
同時にこれはナショナリズムという
当時の通念、ないし常識から見て健全であり、
武士道の精神にも沿っているため
歴史や伝統にも裏打ちされている。
しかるに三島由紀夫の死となると、
ちと怪しくならざるをえない。
彼の死には
戦後日本の精神的空虚さにたいする自覚をうながすという形で
より大きな連続性の肯定につながる要素はあった。
しかし自衛隊駐屯地への乱入は
社会的通念、ないし常識から見て健全と言えるでしょうか?
むろん三島もこの点を自覚すればこそ
切腹という形で、歴史や伝統とのつながりを強調したものと思われますが
社会的通念や常識を超えて
一足飛びに歴史や伝統につながろうとする姿勢には
コジツケめいた滑稽さもあったのは否めない。
「憲法に身体をぶつけて死ぬ」ですからね。
そして西部邁の死はどうか。
自分の家の連続性、
表現者系の言論の連続性、
そして保守派の連続性にたいして
確実に与えてしまう打撃を埋め合わせるような
より大きな連続性の肯定につながる要素はあったか?
『保守の真髄』の最後には、
人工死に瀕するほかない状況で、病院死と自裁死のいずれをとるか
という節があります。
要するに
病院に長期間入り、チューブだらけになってどうにか生きながらえるよりは
みずから死を選び取りたい
という次第。
自殺の理由をみずから語ったものと受け取るのが自然でしょう。
気持ちは分からなくもありませんよ。
劇団四季が繰り返し上演した
『この生命は誰のもの?』という芝居は
まさにこれをテーマにしていました。
しかし。
それだったら延命治療を拒否するだけでいいはずなのです。
入水しなければならない理由にはならない。
延命治療の拒否だって、立派な「自殺」、ないし「自裁」ですからね。
現に『この生命は誰のもの?』の主人公ケン・ハリソン
(日本上演版では早田健という日本人になっています)は
ずばり、この道を選びました。
つまり
病院死と自裁死のいずれをとるか
という構図を
チューブ漬けか入水かの二者択一
と短絡的に見なしたところで
すでに先生の論理は破綻している。
理性的判断として正当なものとは言えません。
そして何より
入水によって連続性が維持される高次元の価値いずこにありや?
人工死に瀕するほかない状況で、病院死と自裁死のいずれをとるか
という見出し自体、
この死が
家の保守とも、社会の保守とも、国家の保守とも無縁なところで
死をめぐる自分の美意識を満たすべく行われたものであることを
告白していはいないでしょうか。
これを保守主義者にふさわしいものと呼ぶことは
私にはできません。
自己陶酔的な浪漫主義というなら別ですが。
自分を殺す者はすべての人間を殺す、
というのは、
当人の側からすれば、
眼前の全世界の抹殺になるからだ。
この宇宙のどんな小さな生き物一つ取っても、
自殺者の死によって嘲笑の痛手を受けぬものはない。
そう、
西部先生は最後の最後で
われわれを嘲笑して去って行ったのです。
これは先生の偉大さを否定するものではありません。
けれども先生の偉大さも
その死にざまを肯定するものとはならないのです。
(↓)ならば、われわれはどう生きるか? まずはこの4冊をどうぞ。
ではでは♬(^_^)♬
17 comments
豆腐メンタル says:
2月 15, 2018
身勝手を受け止めていただき心より感謝いたします。
丁寧なお答えをありがとうございました。
また、脱字に加え、一方的で拙い文章であったことを改めてお詫びいたします。
>自殺肯定は「世界の連続性を理性で否定すること」の正当化につながる。
>自殺否定は「生命以上の価値の存在を否定すること」の正当化につながる。
>このジレンマをどう解消するのか?
私の頭がこのように筋道が立てられたらどんなに幸せでしょう。その上と言いますか、何度か読み返さなければなりませんでした。
佐藤先生の書いておられる通りです。自らの疑問なのに具体的になりました。
また、特攻隊員への畏敬の念や、共感や感謝が受け継がれるのは、”保守主義者の自殺が成り立つ”からなのですね。
このことからも連続性の意味をより身近に再発見できました。
何度か読み返し理解を深めます。
佐藤先生の手前失礼なのですが脇道をお許しください。
偶然ですが、武田邦彦先生のブログで最近、「愛」をテーマに語っておられました。
釈迦やキリストやイスラムと愛の関係が語られるのですが、中でも「突き詰めた利己イコール利他」ということが科学的にも認められてきている、とのことでした。
真偽のほどは私では確かめようもないのですが、にもかかわらずとても感動しました。
保守主義者の自殺はそういうものに違いないと、救われたような気持ちになりました。
何よりも、今回の佐藤先生の自らの身を削るかのような姿勢に救われたような気持ちを強く感じております。
見ず知らずとも言える阿呆の魂に刻んでいただきましたこと、改めて感謝いたします。
くらみっちゃん says:
2月 15, 2018
闘論・討論・倒論拝聴しました。仰る通りです。厳しいですが正論ですね!息子さんや娘さんは自分たちがいることは生きる理由にはならないのかとショックでしょう。死ぬより、このまま生きる方が地獄である、生きることにより多大な迷惑をかけることが明白である。家族にも、自分が命賭けて作りあげてきたものと関係者に対しても。包括的集団に対しても。あと一つ、いま現実の全身の耐え難い苦痛に晒されることは、自分の命が自分のものでないということになる。か…
名無し says:
2月 15, 2018
例えば日本の切腹や大東亜戦争中の上官や集団ヒステリー的な自決、三島の自決(?)、現代における人に迷惑をかけるから社会で勝てない人間は自殺するというような日本の自殺への価値観全てに共通点があるかは分かりませんが世界と相対的に自殺率が高く文化的にも自殺というテーマが濃く含まれているのは確かだと思います。
そして大東亜戦争時の上官の自決や死が目的化した玉砕は死や命をもって責任を取るとか敵に辱しめられない為、尊厳を守ると言えば聞こえは良いですが
敗北後や敗戦後に過去から戦時中そして敗戦後というその当時のリアルを生きた現実や連続性を体験し知る人間がどれだけ惨めでかっこ悪くてもリセット願望を根底にして変わり行く未来に対し歯止めをかけたり蓄積を伝えたり抵抗することで責任を取るという努力がなく自殺してしまうからこそこんなに過去と現在の連続性や整合性を断絶させてしまったのではないかとも思います。
自殺率が高く尊厳やQOL、人生の質が担保されない、労働環境や賃金や生きる活力と情熱を吸い取られる社会というのは苦しみ葛藤し壮絶な人生を生きた人がせめて社会や制度の改善行動の為に戦い続けることをせずお上意識で何もせず諦めるなどの問題も。
フランス革命的な自由平等博愛的な権利主張、ストライキやレジスタンスが時に革命やぶち壊し的な極端さを帯びることも確かですが。
安易に生きづらい人や社会や人間関係的に生きる気力が湧かない人に自殺を肯定してしまうことは社会が最大限の改善行動を取る努力をする前にお前は自殺すべしという同調圧力で弱き人の生命力を折ることになりそれが回り回って社会全体の生きづらさや幸福感のなさになるんじゃないかとも思います
自殺論について関係ないまとまりのない自己主張になってしまいましたが。
ただもう一方で藤井さん等がおっしゃられた近代以前は老いたら自然に最後を選ぶとか
安楽死の必要等も感じます(逆に安易に安楽死を導入することで高度医療の最大限の努力をする前に安楽死するので技術が低下する等もあるようですが)。
西部さんもやることはやって疲れた、体調や病状も決して良好ではなかったようで。ボケて痴呆になり奥さんのことを忘れて病院のベッドに繋がれる前にとかも分からなくもないですが…
正解はないけれど今はまだ何がなんだか分かりません。
こぶみかん says:
2月 15, 2018
佐藤さんこそ綺麗ごとだなあとしか。
できれば自殺はしないほうがいいにこしたことはないが
病気で苦しんでる人、死よりも耐え難い人生も場合にはあり
自殺しちゃダメなんて残酷でいえませんよ
西部先生は
身体を病むほどに全力を尽くし、精神のエネルギーも使い尽くした果て。
自殺というか、やるべき仕事をできる限りのことをしてユニホームを脱いで
作業場を片付け家に帰っていった。そんなかんじだ。
毎日毎日だらだら生きて苦労を避けてアニメ漫画見て世を儚んで自殺したのとは違う
まじめに生きたのだから死に方も選んでいいと思う
個人的には西部先生に死なないでほしかった。
ずっと教えてほしかったと思っていますが
生きてるうちは手抜きできず、逃げることもせず、器用に生きられず
体ボロボロになるまで全力尽くすような生き方を選ぶ人に
そして何十年にもわたり
すべての力を出し尽くした人にもっと生きてとは言えないし
人の心があるならば言ってはいけない
SATOKENJI says:
2月 15, 2018
自殺してはダメ、などと言ってはいませんよ。
この自殺は保守主義者としては思想的に破綻したものだ、と言っているのです。
保守思想を標榜した者として、
このような最期を選ぶのが矛盾していることは承知しているし
おのれの言行不一致を恥じる気持ちもあるが
もはや生き続けるのは耐えがたいので
申し訳ない、行かせてもらう
というのであればまだしも、
チューブ漬けか入水かの二者択一しかないなどと、
無理のある理屈で正当化を図る(というかカッコつけたがる)ようでは、
やはり死者に鞭打たねばなりません。
私が人の心を持っているどうかは
この場合、どうでもいい話です。
ここでのポイントは「もっと生きて」ではなく
「死ぬなら死ぬでいい、だがあの死に方は何だ!」
(ついでにそれを正当化しようと持ち出した、あの詭弁は何だ!)なのです。
ついでに西部さん、
かなり飲んだあと、夜中にわざわざハーネスをつけて入水する元気があった
ことは否定しがたい事実ですよ。
玉田泰 says:
2月 19, 2018
「あの詭弁はなんだ!」
先生、番組でも珍しく少し感情的でしたね。
あそこだけは、遣り切れなくなりました。
コバ says:
2月 15, 2018
医師の立場から極めて狭小な理性から申し上げても、この自殺は褒められるものではないでしょう。
現に彼を尊敬する誰もが、これを真似ようとは思わないはずです。
現在の医療現場も延命せず、最後苦痛除去を名目に麻薬製剤等を使用し続け、点滴も希望しないから使用しないで通して、数日でお看取りしてることは多々あります。
特段本人も大した苦痛がなく済んでいるであろうケースは多々あります。家族から亡くなっているのに、感謝されることすらあります。別に警察沙汰にもならないです。
神経痛とか耐え難いものがあったのかも知れませんが、それも種々の名目で麻薬製剤の使用という手段等はあったはずで、もちろん色々医師に要求すれば医師も苦労するとは思いますが、そこまで他者に配慮したんでしょうか。だとすれば極端に自尊心が低いし、偉大な思想家にしては自己への過小評価も程ほどにと言いたくなるところですよね…
過剰な延命が問題になることが私の実体験でもありますが、過剰な延命を好むおバカがいることと、自身を自裁するかどうかも全く関係のないことです。
大体筋がしっかり通ってるなら、ご家族等にちゃんと今からやるぞと電話でリアルタイムに連絡してやればよいと思いますが、そうすると止められるから連絡しなかったわけですよね…つまり回りの方の全ての思いや感情、理性を否定している行為ですよね…決心が揺らぐかもしれないから連絡しないのかもしれないですが、その程度の決心ならやらないべきでしょう…
思い付きで殴り書いているため、失礼な内容や不適切な内容等が多ければ削除してください。
拓三 says:
2月 15, 2018
西部氏らしい死にかたやん。
チューブが云々は西部らしからぬ論理付けやけど理性による論理なんか意味のない事を証明したんやろ。
西部氏の自殺は感性から? 理性から? どっちが勝ったんやろな。
保守は難しい。
SATOKENJI says:
2月 15, 2018
〈西部邁は、彼らしくない理屈で、彼らしく死んだ〉
興味深いパラドックスです。
ペンギン says:
2月 15, 2018
西部さんは晩年、死ぬ死ぬ言い続けて来ましたが、あれはどういう心理なんでしょう。
のっぴ切らない状況に自分を追い込む必要があったのでしょうか?
色んなところで死なんて大したことじゃない。と言ったり書いたりしてきた人が、
公然と自殺を仄めかし続けるのも、言行一致じゃないなと感じてしまいます。
GUY FAWKES says:
2月 15, 2018
>そう、西部先生は最後の最後でわれわれを嘲笑して去って行ったのです。
>これは先生の偉大さを否定するものではありません。けれども先生の偉大さもその死にざまを肯定するものとはならないのです。
今回の記事で多くの方から数々のご意見が出ておりますが…
西部先生の死とそれに対する反応を見るに思うのが、既に先生がこの様に述べられた通り
自己犠牲に見せかけた人間の自己欺瞞には彼(西部邁)でさえも…いや、だからこそそこに行き着いたのでは。
それははからずも西部先生が保守主義が超越すべき自己保身と美化を晒さずにはいられない一種の「人間的不確実性」存在を
自死によって見事に体現してしまったとしか申し上げられない。単純に言えば、エゴに基づく『カッコつけ』ですよ。
ハンガリー時代のトランシルヴァニア(現・ルーマニア西部)出身の思想家、エミール・シオラン曰く
「私は儀礼上人生を受け入れる。永久の反乱は自殺の崇高さと同様に悪趣味だからである。」
他者の威を借る様ですが、私が西部先生の自裁に対してさしたる困惑を受けずに何故か冷静で、
それについて良くも悪くも落ち着きを払えたのは氏の悪趣味さが感じされたからでしょうか。
こんなこと、某チャンネルの某討論で「ゼツボーが足りん!」某司会者の前で言えば殴りかかられそうですけどね。
仮に「それが恩師にとる態度か!」と怒鳴り散らされたとして「ではあなた達は西部先生から何を学んだのですか?」と問えば、
きっと欺瞞に糊塗された個人的美意識しか言葉に出てこないでしょう。
威勢が良いその実、自身の虚無感に酔っていられる時点で何が「絶望」か。
shun says:
2月 16, 2018
現代社会が大いなる連続性を肯定しうるような
「死」を許さなくなっているところに
西部先生の不幸があったのではないかと思います。
(我々市井の人間には幸福なことですが)
三島由紀夫もそうですが、やっぱり独自の美意識を
持っている方はどうしてもそれを捨てさることはできません。
それは保守主義者としてというより、いち人間・俗物としての欲求だったと思います。
西部先生はおそらく戦乱の時代に生まれていたら、もっと早く死んでいたでしょうね。
風街 says:
2月 16, 2018
「討論!討論!討論!」を拝見しました。佐藤先生の仰る通りだと思います。先生の死は、キルケゴールの「現代の自殺者は、熟慮の上で自殺するものなのではなく、むしろ熟慮に因る自殺者なのである。」という言葉が浮かびました。
そして佐藤先生と同じく、「自裁」という言葉に違和感を感じ、「遠野物語」の観点においての話には、私の皮膚感覚が拒絶していました。私の偏見から申し上げます、「遠野物語」から、むしろ遠くに位置する自殺であり、死だと思うのです。
西部先生は、朝生に出ていた頃から、豪快な部分があるとしても不思議と、繊細さ、女々しさ、弱さをどこかに感じさせる人であり、あそこで一晩中議論する精神的な強さはどこから来ているのだろうと不思議でした。
また、後輩と一緒にいる時に、万引きをして説教したという逸話からも、自分の言説と矛盾したことをする人だなと思っていました。今回の死は、万引き事件と共通項があり、それは「矛盾」です。人間は本質的に矛盾を抱えているといえば、それまでですけれども。
お弟子様からすれば、師匠が何度も死にたいと口にしても、翻意を促すことは到底無理であるし、何度も何度も言われれば、精神的に嫌だったはずです。それを討論の場で口にすることは難しい。先生の死に、それぞれの解釈をつけるしかなかった。佐藤先生は、西部先生とは御父上の代から付き合いがあり、言わば「身内」のような存在で、だからこそ、「先生、それは違うんじゃないですか」と魂の底から、あふれ出るお気持ちがあったのだと思います。
何故、あのタイミングで、という点についてですが、加藤道夫さんと西部先生の両者の自殺、本当にわからないし、理解できるはずもありませんが、土居健郎の「甘えの構造」が頭に浮かびました。自殺そのものではなく、「何故、このタイミングで」。両者の死について、弟子に対するある種の甘えがあったのだと思います。荒れる海ではあるけれど、前を向いて船出をしようとする後輩に甘えたかった。けれど思慮分別の深さ故に「甘えられないことも十分にわかっていた」。結果、あのタイミングで自殺したのかなと思いますね。「主客合一を願う。」でも、それが満たされない。
西部先生、これだけ素晴らしい弟子を多く輩出したのですから、言葉は虚しいと言えるでしょうか。西部先生は謙虚な方なので、多くの優秀な弟子を育てたことは、自分の功績から切り離していたのでしょうか。本当に、偉大で素晴らしい先生だったと思っております。先生の死は涙が出ます。天国でこころ安らかに、、心より哀悼の意を表します。
追伸:先生の自殺を超克する、したいと思う。強さと共に、ある種の「愛」が必要なのだと思います。主客合一ではなく、キリストの愛とか、お釈迦様の慈愛とか、自分が許されるという感覚といいますか。宗教的な話になってしまいますが。
風街 says:
2月 16, 2018
先ほど、「何故、あのタイミングで死を選んだか?」ということについて、弟子に対するある種の甘えと書いてしまいましたが、完成を見届けなかったのは先生が莫大な私財を投じたことが大きいと思いましたので、再び投稿させていただきます。
もし他所の会社で、他人のお金で、、発行していた雑誌だったら、まだ、新しい雑誌の発行を見届けようという気持ちがあったのかもしれませんが、言論の場を保持する為に、2005年6月から2017年12月まで、12年と半年にわたり私財を投入して続けられた。(ダイヤモンドのように純粋で硬い信念です。)表現者という雑誌は晩年の先生自身であり、先生の子供であると言ってもいい。そして、若い執筆者には、どこよりも高い原稿料を払っていた。
以上の経緯をたどって、もし私が西部先生の立場だったらと考えますと、藤井先生が受け継いでくれて、嬉しい気持ちはあると同時に一方で、表現者という雑誌は俺で終わった。次からまた引き続き発行されるとしても、それは(先生の中では)表現者ではなく、別の雑誌だったのかもしれません。先生の中で表現者という雑誌は完全に終わっていたのかもしれないなと思いました。
それでもしかし、何故あのタイミングで?ということは、到底わかりません。10月22日に自殺すると決めていたそうなので、その日が奥様の月命日とかならわかるのですが。。。私も、西部先生のことは心にひっかかっておりまして、長々と2回にわたってくだらない意見を投稿してしまいました。すみません。
玉田泰 says:
2月 19, 2018
番組、拝見しました。
なんだか、酒の入りながらのお通夜の席のようだった中で、
先生が下された総括が、あの番組の全てだったと思います。
西部氏が自殺と言うかたちで自らの保守主義を裏切ったのは間違いないと考えます。
「自分の生命の連続性を否定することが
より大きな連続性の肯定につながると判断しうるときに限って、
保守主義者の自殺は許されるのではないか。」
その意味において西部氏の自殺は健全では無かったと思います。
番組終盤の先生の総括に、明晰さと一種の爽快さを感じ、
今回の出来事を肯定的に捉えなおすことが出来たのが
僕にとって、とても大きな収穫でした。
矛盾するようですが、西部氏は最期まで真剣に生きられた、と思います。
名無し says:
2月 20, 2018
自分の経験から同じ考えに至り西部さんの表現や概念でより具体化できたバランス感覚とは
バランス棒を持ちながらの綱渡りや、ドイツやスイス?等一部欧州における鋭角のきつい屋根の頂点?や稜線を左右前後に揺れ動きながらも姿勢を維持するバランスを取ろうとし続ける平衡感覚の全体像によって満足を覚えること
専門人のごく一点や一部の限られた線だけを取りだし過度に一方向に延長させぼんやりとした全体像や矛盾、不完全性、複雑な要素が絡み合った均衡を見失い現実的現象からかけ離れた机上の空論や万能感にも距離とバランスを取ること
が好きでした
そういう意味で西部さんの自殺や人生、価値観や思想にも様々な生物、人間、社会や国家、世界、地球、宇宙、またはその先の未知の世界におけるインパーフェクションの能動的重視や、矛盾、複雑さ、双方向性や一貫性のなさにもまた
肯定と否定が入り交じるのであり現時点では
潔い死に様、とか自身の人生に筋や決意を通された、と全面的に頭でっかちに称賛するという行為に嫌悪感を覚える
って感じです。
洋一 says:
2月 20, 2018
>ついでに西部さん、
>かなり飲んだあと、夜中にわざわざハーネスをつけて入水する元気があった
>ことは否定しがたい事実ですよ。
道頓堀じゃあるまいに、多摩川川に飛び込んで、
なんですぐ見つかったのかな疑問でしたが、
佐藤先生からのハーネスの報告があってなるほどなと思いました。
そして、ハーネスをつけたこと。
そのことだけで、私は西部先生は偉大だなと思いました。