先週のチャンネル桜

「闘論! 倒論! 討論! 追悼 西部邁と日本」

でも述べたとおり

西部先生の最期が自殺という形を取ったことについて

私は正直、

保守主義者としての思想的破綻だと思っています。

 

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番組をご覧になりたい方はこちら。ただし、キレイゴトや認知的不協和としか思えない発言も見られます。

 

なぜ破綻していると考えるのか?

 

保守主義は

1)人間の理性(つまり判断力)の限界を自覚し

2)社会や歴史の連続性を尊重する

ことを身上とする思想です。

 

しかるに自殺は

自分の判断に基づいて、自分の生命の連続性を否定する行為。

そしてG・K・チェスタトンの言うとおり、

これは本人の視点に立てば

自分の判断に基づいて、目の前の世界の連続性を否定する行為

となります。

 

もっと具体的に行きましょう。

 

西部先生の自殺によって、

お嬢さんや息子さんがショックを受けなかったはずはない。

言い替えれば、西部家の連続性は打撃を受けます。

 

つづいて藤井聡さんをはじめとする「表現者クライテリオン」の編集部、

および同誌の執筆者にとっても、これは少なからぬショック。

先生は自分が退いた後、

どんな言論が展開されるかを見届けようとしなかったんですからね。

言い替えれば、表現者系の言論の連続性も打撃を受けました。

 

そして西部先生がわが国の保守派の中で占めた位置を思えば

保守派の連続性も打撃を受けたのは明らかでしょう。

 

そのような行為を、保守主義に適ったものと呼べますか?

 

自殺は単に一つの罪であるばかりではない、

それこそ罪の最たるものである。

このうえない、

そして全く酌量の余地なき罪であり、

生命そのものに感心を持とうとしない態度、

生命にたいする忠誠の誓いの拒否なのである。

 

ちなみにこれについては

チェスタトンがキリスト教徒(カトリック)だったことを指摘し、

西部先生がチェスタトンやキリスト教の教理を全面的に支持するいわれはないのではないか?

という見解も寄せられました。

 

しかし、そういう話ではありません。

なぜか。

1)先の引用は「正統とは何か」(1909年)からのものだが、

チェスタトンがキリスト教的歴史観を強めるのはカトリック改宗後である。

そして改宗がなされたのは1922年であった。

 

2)西部先生は生前最後の著作となった『保守の真髄』でも

みずからの立場を擁護する形で、チェスタトンを引き合いに出している。

チェスタトンの言葉の中には、「座右の銘」としているものまであったとのこと。

にもかかわらず、自殺にたいする見解(だけ)は支持しなかったと見なすのは、

それ自体が先生の思想的一貫性にたいする否定だろう。

 

3)だいたい、保守主義と自殺の矛盾をめぐる私の見解は、キリスト教と関係なく成立する。

 

しかるに豆腐メンタルさんから、次のような疑問が。

 

保守主義者の持つべき生命観として、個人の命または生命に対しても、連続性を重要視すべし。

ここまでは理解出来ます。では。。

ある保守主義者の命または生命は、連続性が重要なので、自らの裁量の範疇(に)あるととらえてはならない。

ということなのでしょうか。

 

仮にそうとすれば、命または生命が観念に限定されたように思えてきます。

死と同じく生も、本来的にアンビバレントである、と私は考えております。

つまり割り切ることができないものと考えております。

また、保守の思想には実際も重要であるし、また科学も重要であると考えてみると、観念の限定を受け入れることが難しいのです。

プラグマティックな死と生の在り方との関係性、ということになるのでしょうか。。どう考えるかをご教授ください。

(カッコは補足)

 

「命または生命が観念に限定された」

というのは、

いかなる意味か分かりにくいのですが、

かりにこれを

そこまで自殺を否定するのは

「とにかく命あっての物種」という生命至上主義に通じるものであり、

生命以上の価値の存在を否定するものではないか?

という意味に取れば、

豆腐メンタルさんの疑問はもっともです。

 

自殺肯定は「世界の連続性を理性で否定すること」の正当化につながる。

自殺否定は「生命以上の価値の存在を否定すること」の正当化につながる。

このジレンマをどう解消するのか?

 

じつはここから、

保守主義者が自殺する条件が浮かび上がります。

すなわち

自分の生命の連続性を否定することが

より大きな連続性の肯定につながると判断しうるときにかぎって、

保守主義者の自殺は許されるのではないか。

 

当該の判断は

1)その社会の通念、ないし常識(コモン・センス)から見て健全であり、

2)ゆえに歴史や伝統にも裏打ちされている

という特徴を持たねばならないものとします。

 

これならば「プラグマティックな死と生のあり方の関係性」と呼んで良いでしょう。

 

たとえば特攻隊員の死

この基準に照らして、保守主義的に肯定できる。

 

自分の死が

家族や社会、祖国を守ることに資するという形で

より大きな連続性の肯定につながるからです。

同時にこれはナショナリズムという

当時の通念、ないし常識から見て健全であり、

武士道の精神にも沿っているため

歴史や伝統にも裏打ちされている。

 

しかるに三島由紀夫の死となると、

ちと怪しくならざるをえない。

 

彼の死には

戦後日本の精神的空虚さにたいする自覚をうながすという形で

より大きな連続性の肯定につながる要素はあった。

しかし自衛隊駐屯地への乱入は

社会的通念、ないし常識から見て健全と言えるでしょうか?

 

むろん三島もこの点を自覚すればこそ

切腹という形で、歴史や伝統とのつながりを強調したものと思われますが

社会的通念や常識を超えて

一足飛びに歴史や伝統につながろうとする姿勢には

コジツケめいた滑稽さもあったのは否めない。

「憲法に身体をぶつけて死ぬ」ですからね。

 

そして西部邁の死はどうか。

 

自分の家の連続性、

表現者系の言論の連続性、

そして保守派の連続性にたいして

確実に与えてしまう打撃を埋め合わせるような

より大きな連続性の肯定につながる要素はあったか?

 

『保守の真髄』の最後には、

人工死に瀕するほかない状況で、病院死と自裁死のいずれをとるか

という節があります。

要するに

病院に長期間入り、チューブだらけになってどうにか生きながらえるよりは

みずから死を選び取りたい

という次第。

自殺の理由をみずから語ったものと受け取るのが自然でしょう。

 

気持ちは分からなくもありませんよ。

劇団四季が繰り返し上演した

『この生命は誰のもの?』という芝居は

まさにこれをテーマにしていました。

 

しかし。

それだったら延命治療を拒否するだけでいいはずなのです。

入水しなければならない理由にはならない。

 

延命治療の拒否だって、立派な「自殺」、ないし「自裁」ですからね。

現に『この生命は誰のもの?』の主人公ケン・ハリソン

(日本上演版では早田健という日本人になっています)は

ずばり、この道を選びました。

 

つまり

病院死と自裁死のいずれをとるか

という構図を

チューブ漬けか入水かの二者択一

と短絡的に見なしたところで

すでに先生の論理は破綻している。

理性的判断として正当なものとは言えません。

 

そして何より

入水によって連続性が維持される高次元の価値いずこにありや?

 

人工死に瀕するほかない状況で、病院死と自裁死のいずれをとるか

という見出し自体、

この死が

家の保守とも、社会の保守とも、国家の保守とも無縁なところで

死をめぐる自分の美意識を満たすべく行われたものであることを

告白していはいないでしょうか。

 

これを保守主義者にふさわしいものと呼ぶことは

私にはできません。

自己陶酔的な浪漫主義というなら別ですが。

 

自分を殺す者はすべての人間を殺す、

というのは、

当人の側からすれば、

眼前の全世界の抹殺になるからだ。

 

この宇宙のどんな小さな生き物一つ取っても、

自殺者の死によって嘲笑の痛手を受けぬものはない。

 

そう、

西部先生は最後の最後で

われわれを嘲笑して去って行ったのです。

 

これは先生の偉大さを否定するものではありません。

けれども先生の偉大さも

その死にざまを肯定するものとはならないのです。

 

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ではでは♬(^_^)♬