一昨日、そして昨日と、
ドナルド・トランプが大統領選で陥った「大脱線」の模様を見てきました。
だとしても、戦死者の遺族への批判が、
なぜこんな大トラブルに発展したのか。
いやそもそも、
「戦死者の遺族を批判してはいけない」が、
どうして侵してはならない神聖なルールと見なされるのか。
じつは戦死者こそ、
経世済民につきまとうパラドックスを
最も端的に突きつける存在なのです。
経世済民とは、世の中を(上手に)治め、国民の苦しみを救うこと。
いいかえれば、その目標は国民を幸せにすることです。
むろん安全保障も、経世済民の一環。
しかし安全保障政策の遂行は、
戦死者という犠牲をしばしば伴う。
つまりそこには
「国民を幸せにするために行われるはずの経世済民が、
(一部の)国民に命を捨てるという究極の不幸を強いる」
というパラドックスが存在します。
これは「民意は絶対だ」とか
「(民意を体現する)リーダーは絶対だ」
といった理屈で解消できるものではありません。
裏を返せば、いかなる政治的リーダーも
くだんのパラドックスの前には謙虚でなければならない。
さもなければ、経世済民など達成できるはずがないでしょう。
だからこそ、戦死者とその遺族を批判することが
政治家にとってタブーとなるのですよ。
そんなことが許されたら最後、
「経世済民の大義名分を掲げて、
民意の支持を取りつけることさえできれば、
誰にどれだけ犠牲や不幸を強いてもいい」
という話になりかねない。
自己絶対化が正当化されてしまうわけです。
トランプにはこの点が見事に分からなかった。
自分が自己絶対化に陥っており、
したがって経世済民など達成できるはずがないことを、
モロに露呈したわけですね。
おまけにそれを自覚できないまま、
「反論の自由はないのか?」などとツイートする始末。
『戦後脱却で、日本は「右傾化」して属国化する』で使った表現にならえば、
絵に描いたようなキッチュによる思考停止です。
オバマ大統領から
「論外なほど不適格」の烙印を押されたのも、
致し方ない話と評さねばなりません。
・・・さて。
この大脱線から、
ポピュリズムにたいする歯止めのかけ方が見えてきます。
民意を絶対視するだけでは解消できない
「経世済民のパラドックス」を突きつければいい。
するとポピュリズムの中に、
「民意の絶対化による民意の否定」という
自滅的なパラドックスがひそんでいることが浮き彫りになる。
ポピュリスト的リーダーを支持する理由が消滅するわけです。
「経世済民のパラドックス」を突きつけさえすれば、
ポピュリズムの台頭が必ず防げるかどうかは、保証の限りではありませんよ。
社会の状況が悪すぎる場合、
「民意の絶対化による民意の否定」が浮き彫りになったあとも、
人々はポピュリスト的リーダーを支持しつづけるかも知れない。
ただし、最も有効な歯止めにはなると思います。
そして「経世済民のパラドックス」の中核をなすのは、
国のために命を捧げた人々の存在。
英霊は死してなお、別の形でわれわれを守ってくれている。
そう表現することもできるでしょう。
けれども、ここまでくると気がかりなのが、わが日本のあり方。
平和主義が支配的な戦後日本では、
「安全保障は犠牲を伴う」という発想自体が希薄です。
しかも「昭和の戦争」の戦死者については、
英雄視することのほうが、政治家にとってタブーとなっている。
キズル・カーンさんはトランプにたいし、
「あんたはアーリントン国立墓地に行ったことがあるか?」
と問いかけましたが、
日本では政治指導者が靖国神社に参拝すると批判されてしまうのですから。
わが国においては、「経世済民のパラドックス」が長らく隠蔽されてきたのです。
となるとトランプのような人物が出てきた場合、歯止めとして使える切り札がない。
そんな国で、はたしてポピュリズムの台頭を防ぐことができるでしょうか?
人の振り見て、わが振り直せ、という次第でありました。
ではでは♬(^_^)♬
3 comments
Guy fawkes says:
8月 18, 2016
全4回に亘る、アメリカ大統領選から見るポピュリズムと「経世済民のパラドックス」
ちょうど敗戦の日を中心に据えたお盆のこの頃、陛下の生前退位とも相俟って「国民国家の統合とは何か」
それを見直すに秀逸な御考察でありました。
戦後日本が「経世済民のパラドックス」を隠蔽し続けてきた事は先のご著書で赤裸々に暴かれましたね。
畏れ多くも天皇陛下のレゾンデートル(存在理由)たる国民統合の象徴としての役割が継続し得ない段階まで脆弱になっている…
その上で更に戦没者の事を「国策を誤った結果、もしくは悲愴な時代に殺された『可哀想な犠牲者』」としてしか慰霊しない…
これは一見するとその御霊を慰める様で死者の魂を冒涜しているとは受け取られないか?
それが政治家はおろか国民の大多数に占められている様に感じられて、毎年の夏を忸怩たる思いで過ごします。
タブーとは「極少数の犠牲(という建前になっている)を見て見ぬ振りして大多数が繁栄を享受し謳歌する」事に他なりません。
「地獄への道は善意で舗装されている」と誰かが言っていました、ならば善意に胡座をかき続けてきた我々の行く末は自明の理。
敗戦も原爆投下も大空襲も、新左翼の内ゲバも構造改革の大罪も、震災も原発事故も「なかったこと」にしてきた戦後日本。
思考停止を誤魔化す為にはそれまで以上のキッチュが必要、それが尽きたと同時に…きっとゴジラすら日本に愛想を尽かす(苦笑)
正に西部先生が震災後のゼミナールで仰った「生きるにも死ぬにも値しない存在」に他ならないのですから。
追伸:佐藤先生が『バラバラ殺人の文明論』でも論じられたスタジオジブリ制作の宮崎吾朗監督作品「ゲド戦記」の原作者である
アーシュラ・ル=グウィンの『オメラスから歩み去る人々』という短編をご存知でしょうか。
昨年、映画化されたとある国内ドラマの劇中で取り上げられていた作品なのですが、
ここに私は戦後日本の本質が端的に描かれていると感じました。
それでは土曜日のシンポジウムを楽しみにしておりますorz
SATOKENJI says:
8月 18, 2016
「オメラスから歩み去る人々」、1974年のヒューゴー賞最優秀短編でしたね。
ル=グインは同作について、「ウィリアム・ジェームズが提示した主題に基づく」と銘打ちましたが、
宮沢賢治の「世界が全体、幸福にならないうちは個人の幸福もありえない」という主張の寓話化とも位置づけられます。
宮沢賢治こそは「SFがジャンルとして確立される前に、突然変異的に出現した岩手のフィリップ・K・ディック」ですので。
嘘だと思ったら「注文の多い料理店」を、ディックの「植民地」と比較してみましょう。
玉田泰 says:
8月 19, 2016
アメリカ人の考え方は合理的ですね。それに引き換え日本人は国が、国が、と他人事のように言います。自分も国に参加している国民なのに。先の戦争なら国に騙されたとか。
まるで国と言う人格がどこかに存在する如くに。
日本人にとって国とは都合のいい神様みたいな存在なのでしょうか?
天皇制とも関連する気がするのは僕だけですか?
追記。賢治=デイック!?どちらも好きな作家だけにこの指摘には驚きました。まだ腑に落ちません…。
サンリオSF文庫が懐かしい。確か、デイックを全部出すとか言ってましたが、消えましたね。