チャンネル桜の番組
「安倍マリオとポケモンGOの現実と非現実」、
いかがでしたか。
安倍総理がらみの話題では
私が批判的で、水島社長が肯定的というのが
これまでのパターンだったものの、
今回は私が肯定的で
水島社長が(「安倍マリオは良かった」と留保しつつも)懐疑的と、
みごとに逆転したのが面白いところです。
それはともかく、
番組内でも出ましたが
ヴァーチャル・リアリティについて考える際に押さえておくべきは
デジタル技術と条件反射的に直結させるべきではないということ。
むろん、両者に関連がないわけではありませんよ。
私の記憶が正しければ
「ヴァーチャル・リアリティ」という言葉が広まりだしたのは
1990年前後ですが、
これはデジタル技術の発達と明らかに対応しています。
ただし
「ヴァーチャル・リアリティ=デジタル技術の産物」
という図式にこだわりすぎると
デジタル技術が介在していなければ、それはヴァーチャルではない
という結論が
暗黙のうちに出てしまう。
デジタル技術が介在する=ヴァーチャル、介在していない=リアル
という二分法が成立するわけですが
これは本当に正しいか?
ヴァーチャル・リアリティの本質が
1)既存の現実(認識)とは異なっており、
2)かつ虚構性の強い現実(認識)を
3)望ましいものとして提示する
ことにあるとすれば
必ずしも正しくありません。
この三つの条件は
デジタル技術が介在しなければ満たせないものではないからです。
デジタル技術が介在したほうが
上記三条件を満たしやすくはなりますよ。
とはいえ占領時代の東京都心部の地名や
日本国憲法を例にあげて説明したとおり
デジタル技術を使わずに
上記三条件を満たすことは可能なのです。
「ポケモンGO」がヴァーチャルなのはその通りですが
それを言ったら戦後日本だって
従来の日本(の現実)のうえに
「センGO」というアプリをかぶせたようなものですよ。
あるいは左翼・リベラル系の方々がお好きな
うるわしくも素朴な伝統的共同体としての農村への憧れ
にしたところで、
多分に美化されたファンタジーにすぎないという点で
一種のヴァーチャル・リアリティ。
ただし、ここでもデジタル技術は介在しておりません。
だいたい、近代主義者であるはずの左翼・リベラルが
伝統的共同体に憧れるなどという
保守主義的態度を取る点からして
本来ちょっと違う。
逆にわが国の「保守」、
とりわけ戦後保守と呼ばれる人々は
概して開発(=近代化)に賛成ですからね。
保守主義者=伝統擁護、左翼・リベラル=近代化肯定
という二分法すら
わが国では必ずしも正しくないのです。
これについては
「僕たちは戦後史を知らない」で詳しく論じましたので
興味のある方はそちらをどうぞ。
なお余談。
ヴァーチャル・リアリティによる支配を予告した映画の例として
水島社長は「ブレードランナー」を挙げましたが
これは「マトリックス」の間違いでしょう。
「ブレードランナー」に人造人間(レプリカント)は出てきますが
ヴァーチャル・リアリティは出てきません。
ただし同作品の原作者フィリップ・K・ディックは
われわれが現実と思っているものは
本物の現実なのだろうか?
というテーマにもこだわった人なので
当たらずといえども遠からず、ですね。
ではでは♬(^_^)♬
11 comments
むーどん says:
8月 29, 2016
わたしの友人に沖縄で小学校教諭をしている人がいます。
リベラルの大きな集会に必ず出かけて行って、辺野古周辺で変な基地反対活動をしている人を立派と言って称える。
教養人だから新聞は読んでいるけど沖縄タイムス。
産経新聞など読まないのか、と訊くと、
料金が前者の新聞より高いうえ、日遅れで届くので不適切だとか。
仕事が相当忙しいらしく、わたしみたいにネットサーフィンなどしている余裕なし。
先日も現政権が戦争を模索しているのを懸念するメールが届きました。
彼女など、デジタルの介入がないけど、バーチャルの世界に住んでいると言えると思う。
カインズ says:
8月 29, 2016
拝見しました。水島氏が批判的だったのは、安倍総理にというよりヴァーチャル・リアリティの発展に関してという気もいたします。ヴァーチャルがリアルなものを目指したがために、かえってその表現内容が中途半端になってしまうというのは、大いに頷ける内容でした。TVゲームでもドット絵の時には、映像表現としては稚拙な動きであっても想像に任せることで豊かな体験を提供していたのに、リアルな3Dモデルにしたことでかえって表現の幅が狭くなってしまい面白みを失っていると感じることがあります。
神話的なマンガという話題については、国民のほとんどが内容を知っているような作品は、国民の連帯感を強めるという点で神話の条件の一つを満たしているようにも思いましたが、日本のマンガは動画でも述べられていたように無国籍風のものが多いので、必ずしも日本に根ざしたナショナリズムに寄与するとは限らないだろうなぁと感じました。
また、水島氏が『戦後脱却で、日本は「右傾化」して属国化する』をどう読んだのかが気になる所です。
Guy Fawkes says:
8月 29, 2016
「デジタル技術が介在していなければ、それはヴァーチャルではない」とは必ずしもそうとは言えない。
即ち「ヴァーチャルであることにデジタル技術は必ずしも不可欠とは限らない」ということですね。
そこで思いますのが佐藤先生はヴァーチャル・リアリティの本質を例示されましたが、
「望ましいものとして提示する」という最後の条件は明治維新以降の近代化、
そして先生が仰った占領下における東京都市部の地名や日本国憲法という
「デジタル技術が存在するより遥か以前」の時代の方が顕著だった様に感じられます。
あくまでも私見ですが、むしろ『マトリックス』や『攻殻機動隊』そして『アバター』の様に
今現在は「望ましいもの」としてヴァーチャルが提示されているよりも
「扱いを誤れば取り返しのつかない代物」という表現がされているのではないでしょうか?
美化されたファンタジーが敢えて醜く繕われたヴァーチャルによって暴きたてられる…
笑い話としてはポケモンGOによって外に出ること、しっかり前を見て歩くことの大切さを教えられるという(苦笑)
「世界が進歩したのは、怠け者がもっと簡単な方法を探そうとしたからだ」
−ロバート・A・ハインライン
半ライス大盛り says:
8月 30, 2016
1982年度、米国のテレビ局が製作した、『トム・ハンクスの大迷宮』と言うテレビ映画がありました。
内容は、テーブルRPGに熱中する大学生が、妄想にとらわれて現実を見失うというストーリで、
エグバード事件を元にした完璧な創作劇です。これもデジタル技術を使わないバーチャル(仮想現実)への
警告であるようにも思います。
主人公の台詞で、自宅を宿屋と思い込んだ主人公は、遊びにきた友人に『この魔法のコインを君に上げよう、宿代を玄関のテーブルに於いておくと翌日僕のズボンのポケットに戻ってるんだ』という台詞はこっけいですがぞっとする話でした。
Daniel says:
8月 30, 2016
チャンネル桜の番組
「安倍マリオとポケモンGOの現実と非現実」
を視ました。
水島社長のこと、何だかとても好きになってしまいました。
(実は私チャンネル桜ってほとんど視たことなかったので)
有言実行で、男気溢れるところ。
結構ロマンチストで、その昔は文学青年だったのではと感じさせる
教養や心の繊細さやのようなものが感じ取れるところ。
きっと従前の脚本などのお仕事でも、出来る人であったのではと
思いました。
ご言説は、私には時々「?」と感じられるのですが、滲み伝わる
お人柄は、とってもファンになりました。
時に動画の内容ですが、
日本国憲法が「ヴァーチャル・リアリティ」だというご指摘には、
目から鱗でした。
確かに、憲法のことを「嘘っ八のファンタジー」だと思ったことは
あって、しかもそれが「リアリティ」だと押し迫ってくるような
切迫した感覚を指すには、言い得て妙だなと。
神話的な漫画、或いは、漫画的な神話、というくだりも、
とても唸らされました。
Daniel says:
8月 30, 2016
そういえば、アッと思い出しましたが、「ヴァーチャル・リアリティ」といえば、
日本国憲法だけでなく、「従軍慰安婦」問題で戦後賠償とか、
郵政民営化で何でも解決とか、脱原発とか、TPPとか、南シナ海の九段線とか、
何が何でも消費税増税は万歳で却って経済成長するとか、移民や難民は善で
ダイバーシティ(多様性)万歳とか、
よく考えると、ここ暫らくの間でも、猛威を振るって我々を揉みくちゃに
してきましたね。この既視感と脳が軋むような感じは、確かに「マトリックス」
そのものです。
(ひょっとすると、お隣の半島国では、こういうヴァーチャル・リアリティに
脳が耐えられずに「火病」とやらを起すのかもしれません。少し可哀想。
彼らがその憲法で定める、上海に在った「大韓民国臨時政府」の正統な
後継国という自己規定って、ヴァーチャル・リアリティそのものですものね)
落ち着いて普通に常識で考えてみれば、ちゃんと学識を辿ってみれば、
「そんなんでウマくいくかよーっ!!」ですよ。
単純に言って、「木の葉が沈んで石泳ぐ」。
漱石の胃病も、そういうことだったのかなぁなんて思いました。
Daniel says:
8月 31, 2016
更にそういえば、大阪府では、「都構想」っていう、
壮大?なヴァーチャル・リアリティがありましたね。
桑原、桑原。
せい says:
8月 30, 2016
昔の仏教の教えなどでも、今から見ると「なんで即身仏なんてするの」と不思議に思いますが、例えば徳川家康が朱子学を採用したように、その時代ごとに支配者が都合の良いイデオロギーを広めて国を治めてきました。不敬かもしれませんが、日本の皇室も「ヴァーチャルな設定」といえましょう。ただその「設定」が、どれほど貴重かつ唯一無二で、先人の歴史の知恵であるかを、教えないでいると、勘違いした××××のような俗物が現れ、国が乱れる原因となりえるのでしょう。そう考えると、昔の仏教で欲を捨て即身仏になるまで修行した人を崇め奉ったり、般若心経のような「この世はバーチャル、気楽に生きろ。(意訳・超適当)」などといった概念を広め、人心を治める事の大切さも理解できます。お隣の国のような国民性になってしまいかねません。
せい says:
8月 31, 2016
P・S
昔、小林よしのりがゴー宣で「面白いギャグは、まっとうな感覚を中心に据えてないと、振り幅の大きいギャグは生めない」というような事を言っておりました。佐藤さんが番組で仰っておられた「現実と虚構の区別が付かなくなってきたのではなく、リアルな現実という感覚が喪失してきているから、ダイナミックな虚構ではなく、ほどほどに現実と仮想を混ぜてるものができる」という主旨の発言に、なるほどと思いました。
反孫・フォード says:
8月 31, 2016
>ポケモンGO
ニュースで見て知りはじめた頃、
そう言えば、昔、wii(でしたか?)ってありましたけどあれはあの時代から現在まで流行らなかったのかなぁ、と、ふと思い出しました。
あの形体?であれば、事故も起こらずに済むとおもうのですが・・・・・
と、思い出していたことでした。失礼しました。
玉田泰 says:
9月 3, 2016
人間にとってリアルとバーチャルの違いはただ一つ情報が生命に宿っているか、だけだと思います。そして生命を担保しているのは死なのでしょう。その意味で自らの終わりを含まない情報は全てバーチャルなのかも知れません。
生命は情報に拠って連鎖しますが、そこに死がプログラムされていることでプログラム自体を書き換える能力を持ったのではないでしょうか。
逆説的に、バーチャルが死を予感させるのは、そのためでしょうね。