ご存じの通り
今年のノーベル文学賞はボブ・ディランに決まりました。
この受賞については
ミュージシャンに文学賞というのはおかしいのではないか
という批判もあるようですが
私は肯定的です。
というのも、
伝統的に見た場合
文学は「読む」ものというより「聞く」ものだったからです。
これについては
人々の識字率が低かった
活版印刷の技術が発達していなかった
紙が貴重品だった
など、
いろいろ現実的な理由も挙げられるでしょうが、
書き言葉(=日常会話よりも密度の高い表現)を声に乗せる
ことが、文学の重要なポイントだったことは間違いありません。
実際、「平家物語」だって
「聞く」ためにつくられた語り本系のバージョンと、
「読む」ためにつくられた読み本系のバージョンとがある。
しかも語り本系について、ウィキペディアにはこんなことが書かれています。
語り本は当道座(注:男性盲人の互助組織)に属する
盲目の琵琶法師によって
琵琶を弾きながら語られた。
これを「平曲」と呼ぶ。
ここでいう「語る」とは、
節を付けて歌うことであるが、
内容が叙事的なので「歌う」と言わずに「語る」というのである。
いいかえれば弾き語りも
立派な文学たりうるのです!
そしてディランの歌には
「ボブ・ディランの115番目の夢」
「廃墟の街」
「リリー、ローズマリーとハートのジャック」
「ハリケーン」
「テンペスト」
など、叙事的な内容の曲も多い。
ならばディランの業績を文学として評価することは
まったく正当だと言えるでしょう。
「ローリングストーン・アルバムガイド」
(アメリカの音楽雑誌「ローリングストーン」が編集した
ポピュラー音楽に関する一大ガイドブック)も
ディランの業績について、以下のような趣旨のこと書いています。
ポピュラー音楽にとってディランの歌詞は
まったく新しい言語が新たに創造されたようなインパクトがあった。
ディランの言葉には本物の詩人たちの息吹があり、
そこで表現されている感情
(皮肉、予言、怒り、不安、個人的な歓喜など)は
それまでの主流派ポピュラー音楽では
扱われたことのなかったものだった。
(カッコも原文)
人間は文章を黙読しているときでも
頭の中では音読していると言われます。
というか、私の関知するかぎり
頭の中で声にならない文章は
読んでも頭に入らない文章にすぎません。
その意味で
書き言葉と声の関係を密接に保つことは
文学のみならず
一国の学問や文化全体を豊かにするものと言えるでしょう。
いよいよディランの受賞を祝福したくなるところですが・・・
ディラン本人は今回の受賞について
まったくコメントしていません。
それどころか、
ノーベル文学賞の選考委員会を兼ねている
スウェーデン・アカデミーにも連絡を取っていないとか。
アカデミーはとうとう、
ディランに連絡するのをあきらめたと言われます。
12月10日の授賞式やセレモニーに出席するかどうかもまったく不明。
アカデミーの担当者は
来る気がなければ来ないでしょう。
どちらにせよ、盛大なパーティになりますし、
その栄誉は彼のものです。
と、ヤケ気味のコメントをしています。
ジャン=ポール・サルトルのごとく
ノーベル文学賞を蹴った作家は過去にもいますが
ここまでシカトした人は初めてではないでしょうか?
これもまた、ディランの大物ぶりの表れかも知れません。
ではでは♬(^_^)♬
5 comments
アイラ says:
10月 20, 2016
この文章も先日拝聴したシンゴジラ討論会での佐藤さんの声で脳内再生されました。
Guy Fawkes says:
10月 20, 2016
「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」ジャン=ポール・サルトル ノーベル文学賞辞退にあたって
「ロックを高次元の文芸へと導いた功績だぁ!?いつからロックはインテリ共より下に見られてたんだ?
いくらお呼ばれしようと、スウェーデンにゃ行かねーよ、『I’m Not There』!」
ディランはこう思ってるのではないでしょうか(苦笑)
私も佐藤先生のディラン文学賞受賞には賛成します、文学とは文芸と同一視しても構わないものです故。
そういえば『アイム・ノット・ゼア』は『ダークナイト』より前のヒース・レジャーが存命時最後に公開された映画でしたね。
いつかは、佐藤先生にクリストファー・ノーラン監督作のバッドマントリロジーを評して頂きたいですね。
ホワホ says:
10月 20, 2016
ノーベル賞を一番コケにしたのは
オバマ大統領だと思ってます
彼がやったのはたかが授賞式をすっぽかす如きでは無いのでw
TOMAS陸式 says:
10月 20, 2016
んー、別にディランが俗世間から賞を賜ることに何も意見はないのですが、敢えて現代の純文学作家を擁護させていただきますと、視覚的効果が失われてしまえば、もうそれは文字通り「文学」とは言えないのではないでしょうか?世界最古の文藝作品である(とされる)石版に刻まれたギルガメシュ叙事詩から、文学というものが多義的に対等に尊重しあいながら発展して現在に至ると考えれば、本質的に文学にはある種の究極性なんていらないと思いますよ。
玉田泰 says:
10月 24, 2016
淡々と生活としてツアーを続けるディランは本当に格好いい!
彼にしたら「俺の生活に賞とか意味が分からない」という所ではないでしょうか。