またもやブランクが生じてしまいましたm(_ _)m。
じつはですな、
先週末あたりから
負傷した左足首が痛くなりだしまして。
歩くのも大変になってしまい
先日、病院に行ったときなど
院内は車椅子で移動していたくらいです。
・・・どうも手術のあと、
癒着したままだった皮膚と筋肉が
ここに来て剥がれたようなんですね。
皮膚が筋肉に癒着したままだと
当該箇所がいつまでも硬くて動かしづらいので
これ自体は良いことらしいのですが
いかんせん、痛いものは痛い。
そんなこんなで
記事が書けなかった次第ですが
それでも!
チャンネル桜復帰を果たしました。
足が痛くなる前に出演が決まったこともあり
これはやらねばと頑張ったのですよ。
というわけで
本日20:00より放送の
「闘論! 倒論! 討論!」に出ます。
テーマは「映画を通して見る現代世界」。
他のパネリストのみなさんは以下の通り。
上島嘉郎さん
木坂麻衣子さん
さかき漣さん
寺脇研さん
前田有一さん
三浦小太郎さん
(五十音順)
司会はもちろん、水島社長です。
「ローマの休日」のどこが好きかとか、
007とルパン三世の関係とか、
アポロ11号の月着陸映像が、
じつはスタンリー・キューブリックによって捏造されたものだったという陰謀論をどう思うかとか、
はたまた難病もの映画のつまらなさとか、
話題はいろいろ出ましたが
私が提起したポイントはこちら。
日本映画もまた
政治とは異なる形で
「右傾化」と属国化のプロセスを歩んでいるのではないか?
詳しくは番組をご覧いただくとして
嬉しい驚きだったのは
水島社長が絶賛して下さったこと。
2時間目の冒頭あたりをどうぞ。
『戦後脱却』を読むことはスペランツァ(希望)です
とおっしゃったのは
このブログにも時折コメントを下さるベッラさんですが
もしかしたら社長も
何かスペランツァを感じて下さったのかも知れません。
ちなみに私は
痛みが早く治まることを目下のスペランツァにしたいと思います!
ではでは♬(^_^)♬
3 comments
むーどん says:
3月 27, 2016
観ました!
痛みをこらえていたのですね、佐藤さん。
なるほど、腑に落ちる。。。
3時間、飽きることなく一気に観てしまいました。
そして、おまけにローマの休日も最初から最後まで見ちゃいました。
昨日、映画を勉強しに来てる日本人青年と出会って、映画の話をしていました。
わたしは映画を見る方ではないのですが、映画っていいな、と再認識させられる昨今。
ベッラ says:
3月 28, 2016
ベッラです。日曜にuPしました。そして佐藤先生が「スぺランツァ」とお書きだったのにとても嬉しくてそれも書いてしましました。
「詳しくは番組をご覧いただくとして」からです。今回は事前にご許可を得ず、舞い上がって書いてしまい、
申し訳ございません。これです。http://blog.goo.ne.jp/bellavoce3594/e/f56c6d569580a4fd1c3049b5769bc93c
討論も大変良かったと思います。もちろん先生のご本も読んでいます。
佐藤先生、どうぞお大事になさってください。
フルート says:
3月 28, 2016
辛い痛みも、決して悪くなっていっているからではなくて、これも完治に向かって行く体の一つのプロセス、という事ですよね・・?・・痛みも早く引いて全快される事をお祈り致します。。
そしてチャンネル桜の討論、とても勉強になりました!
私はやっぱり、日本だけじゃなくアメリカにも、現実(21世紀)を否認しながら「今はまだ20世紀後半なんだ」と思おうとする様な風潮がある、というお話しが、一番テーマとしても大きかったし、また最も本質を突いているとも感じてすごく面白かったのですが、三浦さんもパート2でおっしゃられていた「日本の一つの大きな矛盾」(左派だって少なくとも「国家主権」の存在を主観的には認識していて、これを主観的には否定しようとも思っている筈なのに、その否定しようと思っている対象をありのままに描いてそれを否定しようとはしないで、タブー視してしまって、その為に「戦争のむなしさ」も本当には描けないでいる)のお話しも特に強く印象に残りました。
この現実の否認のお話しと、『風立ちぬ』の事で私が少し思ったのは、宮崎駿監督の<描いた事は描いたけど、明らかに変に描いた>爆弾についてです。
爆弾は劇中、冒頭の二郎の夢の中にだけ出て来るのですが、爆撃機にワイヤーで吊り下げられたこの無数の爆弾は、一個一個がそれぞれ心臓の様に動いていて、爆発するという意思を持ったほとんど生き物の様に最初は描かれているのですが、カメラが寄ると、この動く爆弾の上にはそれぞれ黒い人影が乗っていて、特に二郎の飛行機に直撃する爆弾の上には、2人の黒い人影が乗っているだけじゃなく爆弾の中にももう1人黒い人影が乗り込んで丸窓からこちらを覗いている形にもなっている上、二郎の飛行機に直撃する時には、この爆弾は、黒い人影の乗るもう動かないただの鉄の塊り状態になっていて、爆弾なのに爆発しません。しかも同じ形状のまま二個に分裂します。夢なのだから一貫性がない方がある種夢らしいし、今にも爆発しそうな恐怖を二郎少年は感じ取っているから故の爆弾の拍動(?)だったり、直撃される側とする側とでも視点が交わっている事の意味とか色々考えたのですが、それでも意思を持った生き物の様に最初描かれていたものが、途中から中に乗り込める乗り物みたいに変わった後最終的には爆発しないただの鉄の塊り状態へと変化させたのは、二郎少年の体や観客の体も借りてはいてもそれはやっぱり宮崎駿監督の視点でもあって、生き物ではなく人が扱う道具としての爆弾と人との関係性が却ってうやむやになってもいる感じなども私は少し受けてしまったのと・・あと政治の左右の対立などで、お互いがお互いの事を、ある時はすごく恐ろしい存在として見ていたと思ったら、今度ある時にはその相手はすごく滑稽な存在として嘲笑されていたり、またある時には「あいつは何々のスパイだ!」・・とか、お互いにものの姿を歪め合って見ている事について、このものの姿を歪める行為は、私は歪められる前のものの姿をほとんどの人は見るか感じるかして知っていて、知った上で直視できない都合の悪さから歪めているという側面の方が、最初から本当にそのものを知らないで見誤っている側面より多い筈だと思いました。相手を歪んだ敵にして「こうするしか選択肢はないんだ」と思っているTINA現象は、歪められる前のものの姿と今の自分の姿とを認識できていなかったら、歪め様にも歪められず起らないからです。歪められる前のものの姿からのちゃんとした繋がりだったり順番としてものを見る事とか、ものに対しての扱い方を間違わない様にする事(間違った扱い方をしていると、そのものの方でも本当に歪んで行く可能性だってあると思うからです)などを意識する事が、一見遠回りな様でいて主体性は掴むのには結局近道な感じもしました。(長文すみません。。)