昨日もご紹介した
「戦後日本のサクリファイス」では、
アンドレイ・タルコフスキー監督の映画「サクリファイス」を取り上げています。
しかるに面白いのは、
この作品に「日本の木」と呼ばれるものが出てくること。
それはいったい、どういう木か?
・・・じつは枯れ木なのです。
ただし枯れ木と言っても、
ただの枯れ木ではありません。
毎日、きっちりと水をやりつづければ
いつか必ず甦って花を咲かせる木なのです。
小説版「サクリファイス」から、
該当箇所をご紹介しましょう。
ここでは主人公アレクサンデルが、
問題の枯れ木を地面から拾い上げ、
その先端を岩の割れ目に押し込みます。
そして、こう言うんですね。
ずっと昔のことだが、
パンベという、正教のある修道院の長老が
山のなかに、ちょうどこれと同じように枯れた木を差し込んで、
イオアン・コーロフという弟子の修道士に、
その木が生き返るまで、
毎日水をやるよう命じたことがある。
何年もの間、
イオアンは毎日、朝になると桶に水を汲んで出かけていった。(中略)
こうして丸三年が過ぎた。
そしてある日、イオアンが山に登っていくと
彼の木に、花が咲き乱れているのを目にしたんだ!
(鴻英良訳。表記を一部変更)
映画のラストシーンでも、
この「日本の木」が写されていますが
枯れたように見える木でも、再生を信じて水をやり続ければ、いつか花が咲く
というのは、
保守の可能性を考えるうえで、じつに意味深長ではないでしょうか。
「【表現者座談会】民主主義を疑え」でご紹介した
西部先生の発言を想起して下さい。
本来なら死んでいるのにまだ生きている。
そうしたら、未来は明るいと考えるしかない。
西部先生とタルコフスキー、
期せずして認識が一致しています。
ならば「日本の木」、あるいは日本の未来も明るいと言えるでしょう。
とはいえ、なぜこの木が「日本の木」なのか?
小説版ではこう説明されています。
枯れ木の先端を岩に押し込んだあとの、アレクサンデルの言葉。
「きれいじゃないか、ね?」
彼は息子に呼びかけた。
「イケバーナだよ! 日本のイケバーナよりもずっと大きいけどね!」
・・・どうもタルコフスキーさん、
生け花と盆栽を混同している気味があるのですが
これは不問といたしましょう。
異文化理解に、その程度の勘違いはつきものでございます。
ではでは♬(^_^)♬
4 comments
test says:
2月 21, 2015
保守派はリアリズムを大事にしますが、何と言っても理屈で語れない所を無視する訳にも行かないのですよね
抽象的な言い方ですが、種をまきつづけ、水をまきつづけるしかないのでしょう
西部先生の絶望的な言論も紛れもなく種であると思います
akkatomo says:
2月 21, 2015
生け花も盆栽も、自然の一部を切り取り、何と言いますか、景を成する、という点で同じでございます
で、あれば人為の努力によって美を遂げる、という営為から生け花盆栽というものを連想するのは差ほど違和感ないような
生命は自ずから成るもので、人はその手助けが出来るだけであります
ですが、人為と自然が実って一つの景色を内心と外界に作る時、それはきっととても美しいのでしょうね
反脱亜論 says:
8月 4, 2015
枯れてしまった日本の木について、私はタルコフスキーは、現在のどんな日本の知識人よりも日本の古い時代の文化、特に江戸時代の文化については深い理解を持っていたと思います。日本の知識人で、江戸時代の文化や心を理解している大学の先生がいるでしょうか。
枯れてしまった日本の木とは、日本の古い時代の文化、人間と自然が共生したいた時代の文化である日本の江戸時代の文化を、もう一度再生させなければならないということなのです。つまり、自然と人間が共生していた日本の江戸時代の文化、それはある意味では印象派を作り出した日本のジャポニスムこそ、日本の木であり、枯れてしまった日本の木とは、ジャポニスムそのものであり、それを再生することが核の時代の黙示録の世界の希望なのだと述べていると思います。
日本の木とは、ゴッホの描いた広重の亀戸梅屋敷の木であり、タルコフスキーは、西洋文明の中でジャポニスムがどのような意義を持っているのか深い理解があったということです。我々日本人は、ジャポニスムや日本の古い文化、江戸時代の文化についてどれほどの理解があるのでしようか・・・・我々こそ日本の美意識を失っているのであり、なんで日本の未来が明るいと短絡的に解釈するのでしょうか・・・この枯れてしまった日本の木は、もともとは聖書の世界で述べる生命の木のことを意味しているのです。生命の木が日本の木であり、その生命の木である日本の木が枯れてしまったとなっているのです。
どうして生命の木が日本の木となっているのか、何もわかっていないのです。宗教的映画であるのに、物質的にしか解釈していないのです。そうではなく、生命の木の世界とは、自然と人間が共生していた日本の江戸時代の庭園都市の世界であり、その日本の生命観や倫理観の中に、現代文明の問題を解決する道があるのに、その生命の木である日本の古い文化は、日本の西洋化によって破壊されて、枯れてしまった状態とあるということなのてす。これが今の日本人には感性として理解できない以上、明治から始まる福沢諭吉の脱亜論の学校教育の世界観の中に埋没してしまっている今の日本人には、サクリファイスの核心は見えてこないと思います。
脱・福沢諭吉の世界観 says:
8月 4, 2015
ノスタルジアの中で、水を汚さない世界までに、世界を戻すということ。水の汚れのない世界とは、いったいどこにあるのでしょうか・・・・私は、現在の日本人の感覚では、このサクリファイスの映画は理解できないと思っています。それは何故かと言うと、現在の日本人は、実は本当の日本人ではないからです。タルコフスキーは、初めに映像で、生命の木は、日本の木のことであり、その生命の木である日本の木は、枯れてしまったのだと述べているのです。そしてその生命の木である日本の木の再生をすることが、核の時代の黙示録の希望であると述べているのです。私達日本人が脱亜論の世界にいて、福沢諭吉の価値観を絶対として西洋文明やアメリカの価値観の中に埋没して生きている以上、実は何も理解できないのです。タルコフスキーと現在の日本人の感覚の間には、大きな溝があるのです。そして日本人ほど、日本の知識人ほど西洋化され欧米化されているので、実は何も理解できないでしょう。タルコフスキーの視点は初めから核の世界を推進する日本人の価値観とは反対にいるのですから・・・