今週の「新日本経済新聞」では、

「ゴダールの大予言」として

本ブログでも紹介した「メイド・イン・USA」のフレーズを

より詳細に分析しました。

 

すでにフィクションは現実を凌駕(りょうが)した。

すでに血も流れ、状況は謎に包まれている。

すでに私は、

「ハンフリー・ボガートがなぜか主役を務めるディズニー映画」の世界を漂流している気がする。

ゆえに、この映画は政治映画なのである。

 

ちなみにゴダール、

じつは「愛国のパラドックス」にも

少なからず影響を与えています。

 

というのも、彼はこんなことを語っているんですね。

 

もし人が革命的な映画を撮りながら、

反動的な人間の考え出した編集方法を使ったとしたら、

事態は必然的に工合の悪いことになろう。

 

実際、ゴダールは初長編作品「勝手にしやがれ」から、

日本でも目下、公開中の最新作「さらば、愛の言葉よ」(なんと3D!)にいたるまで

従来の映画の表現形式を疑い、

新しい映画の文法を模索することを追求しています。

 

けれども上記の言葉は、

こう置き換えることもできるでしょう。

 

もし人が社会を保守主義的な方向に変えようとしながら

左翼の考え出した方法論を使ったとしたら、

事態は必然的に工合の悪いことになろう。

 

ところが、であります。

「愛国のパラドックス」の序論で指摘したように

わが国の保守(派)には、

まさにこの傾向が強いのですよ。

 

そればかりではありません。

 

ゴダールが提起している問題は、

目的と手段を安易に切り離して考えると、堂々めぐりに陥って失敗する

と要約できます。

 

しかるに「僕たちは戦後史を知らない」「震災ゴジラ!」で指摘したとおり、

戦後日本は堂々めぐりを繰り返しつつ、衰退の危機に陥っている。

 

ならば「日本の保守」(=できるだけ望ましい状態の達成・維持)についても

目的と方法論の一致が、もっと真剣に追求されてしかるべきではないでしょうか?

 

本当に保守をめざすのであれば

ジャン=リュック・ゴダールから学ぶべきことは多いと言わねばなりません。

 

これについては、今後も折に触れ考えてゆきます。

 

ではでは♬(^_^)♬